たとえば、
「子どもが○○高校に合格してほしい」
「恋人や友人に会いたい」
と思っているとき、その通り祈るよりも良い方法があると聞いた。
「子どもが幸せになりますように」
「恋人・友人が幸せになりますように」
と祈るのだと。
もし、○○高校が子どもの個性にぴったり合っていて、そこへ通えば幸せになれるなら、神は聞き届けてくれる。
しかし、子どもにとって○○高校へ行くことが幸せでないなら(たとえば教育方針が子どもに合わないなど)、神はあえて不合格にさせることもある。
恋人・友人にしても、「私と会う」ということが幸せなら、神は会わせてくれるし、他に幸せな道があるなら会わせてはくれない。
私にとっても「私に会っていたせいで、不幸になってしまった」ということになるのは、非常に申し訳ない。
だから、祈った結果会えなかったとしても、それはそれで良いということなのだ、と教えてもらった。
私がこのことを、初めて「納得」できたのはごく最近のこと。
ある人のために、自分なりに頑張ってきたつもりなんだけれど、「この人は私のことがどうでもいいのだ」と思わされることが続いた。
自分自身もプライベートで疲れ果て、もう頑張ることができなかった。
そんな時、祈りの中でふと気づいたのだ。
「こんな状態の私が、その人の目の前にいること自体が、その人を不幸にしてしまう」と。
「だから、神は『その人を幸せにして』という願いを聞き届けてくれたのだ」と。
私はそれからも、毎日祈り続けているけれど、「どうでもよい存在なのだ」という現実を受け入れて祈ると、なんだか心がとても落ち着く。
「その現実がいやだから祈る」よりずっと、心は穏やかなのだ。
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