昔、和歌山にいた友人に、会いに行っていた。
「何かを話すと、返事をしてもらえる」ってことが、とても嬉しかった。
友人はよく、
「県境をまたいで来たら、気分が変わるやろ? 普段は口に出せんことでも、出せるやろ?」
って言ってくれた。
振り返ると、本当にそうだったなと思う。
ある時、
「私はいいけど、友人にとっていいことはあるのか?」
って考えてしまった。
「返事」がそれほど嬉しいってことは、普段の生活で「返事」がもらえてなかったことの、裏返し。
「友人にとっていいことは?」という考えが、一度わいてしまうと、それを一人で拡大再生産してしまい、誰に相談することもできなかった。
その頃、偶然読んでいた本に、次のような内容が書かれていた。
「その出来事にどんな意味があるのか、今は分からなくても、後になって『ちゃんと意味があった』とわかることの方が多い」
全く関係のない2冊の本、たまたま同時期に読んだだけの2冊に、ほぼ同じ内容が書かれていたために、とても印象に残ったのだ。
和歌山の友人と共有できた時間は、短かかった。
その時間にできることは、「友人の返事を素直に喜ぶ」ということしかなかった。
でもその時間が、とても意義深いものだったことが、今の私にはわかる。
友人にとってどうだったのか?
それは分からない。
でも、今後の友情をどう育てていくかということが、あの時間の意味を変えると思う。
これから、
「あぁ、この人と友人で良かった」
と思えるような関係が築けるならば、和歌山での時間はとても有意義なものだったことになるし、
「こんな奴と、付き合うんじゃなかった」
と思われるよな関係しか作れないなら、和歌山での時間も、意味のないものだったことになってしまうだろう。
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