奴隷解放が重要なファクターだからだろうか、かつて観た「グローリー」を思い出させてくれるシーンが多々あった。
モーゼがヒーロー的に描かれておらず、迷いながら進んでいくという部分もそうだった。
そして、神が子どもの姿をしている点も、興味深い。
作中の神が放つ怒りは、人間の大人なら抑圧してしまうような種類のものだし、またモーゼに命令する存在ではなく、対話する存在であることは、子供の姿だからこそ表現できたのかなと思う。
そして、モーゼが約束の国へ入ることができなかった理由は「神が聖なるものであることを示さなかったから」と言われているけれど(この部分は映画では描かれない)、このことと子供の姿であることは、多分何かの関係があるのかなと思う。
最も印象に残ったのは
「我々の間には対話が続いている」
という言葉。
指導者と民衆の間に、一方的な命令や隷属関係ではなく、対話があったかどうかが、神と王の運命を別けたのだと思う。
ちょっとした行き違いや反発を許さず切り捨てるのではなく、対話することの大切さが、「グローリー」でもたびたび取り上げられていたなと、改めて思い出した。
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