人間は「視覚情報」「内耳の平衡機能」「足裏の感覚」を使って、体のバランスを保っているんだよ、と内リンパ嚢開放術の執刀医の先生に教えてもらった。手術後、はじめて歩いたときに「耳がどうこうというより、足がぐらぐらで歩けない」と言ったら「それは、数日は歩けなかったために、筋力が衰えたり、足裏の感覚が鈍ったりしているんだよ」と。
昨年、耳の状態が悪いといわれたときに、「まっすぐ歩けているし、めまいはない。何かの間違いではないんですか?」と思わず言ってしまった。内リンパ嚢開放術の後に、私はダンスをやって足腰をある程度鍛えていたから、何とかなってしまったのかもしれない。
最近、自分がまっすぐ歩けなくなってることには気づいていた。ただ、いつもまっすぐ歩けなくてふらふらになるのではなく「特定の条件がそろったとき」に、まっすぐ歩けない。
一つ一つ、条件を検討して、まっすぐ歩けるようになろうと、何ヶ月もかけて「歩行訓練」を行ってきた。私の歩行訓練とは、電車で好きな駅までいき、線路脇の道を1駅か2駅分歩いて、また電車に乗って帰って来る、というもの。そうやって移動すると、色々な種類の道があるので、どういうときに「まっすぐ歩けない」かが分かる。
●見通しがよすぎて、車の量が少ない道路
→ 目印を定めることができないため、視覚情報が混乱
水はけを良くするための傾斜が、わずかに歩道についているために、足裏の感覚が混乱
●タイル舗装の道路
→ 足裏から「全体としてはやわらかいのに、凸凹(タイルの継ぎ目)部分が固い」という、妙な感覚が伝わってくるため、足裏の感覚が混乱
●地面に「止まれ」とか、横断歩道の模様がない道路
→ 何も地面にない区間が長く続くと、目印を定めることができないため、視覚情報が混乱
●砂利道
→ 予期せぬところに小石などが転がっていると、足裏からの情報が混乱
ぬかるみのある日は、妙にやわらかい感覚があって、足裏からの情報が混乱
など。
最近、びびりながら歩いているせいか、左足首の調子がおかしくなっている。そこでテーピングをしたり、テープが無いときは、破れたパンストをゲートルのように巻いて、足首を固定する。余計な不安に惑わされず、足裏の情報をしっかりつかめる状態にして、いろんな道を歩いてきた。「このような道は、このように感じるのだ」ということをおぼえようとしてきた。私はこれからも、歩いていくだろう。
人間や動物の赤ちゃんは、誰に頼まれたわけでもないのに、本能的に「歩きたい」と思って歩き始める。
私は「こういう道は、どう歩けばよいか?」を知ろうと、ある種「挑戦者」のような気分で、歩いているけれど、赤ちゃんはそれを、もっと本能的に、感覚的に、気楽にやってのけるんだろう。
「歩く」ということは、すごいことなんだなぁ。
赤ちゃんは、多分、転ぶことを恐れていない。転んだってかまわない。ひとしきり泣き叫んだら、また歩き始めればいいのだから。今の私にも、赤ちゃんと同じような気持ちが、必要なんだろう。
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