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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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想像できなかった人生へ踏み込もうとすること

素人があれこれ考えただけですので、医学的な部分で誤りがあるかもしれません。

内リンパ嚢開放術を受けるなり、内服をするなりして、めまいが起きなくなったときに、どういう人生が待っていると思いますか? 私の実感としては、手術を受けるほど重症になると「めまいのない人生を想像できない」という点が、意外に怖い点ではないかと思っています。

想像できないと消極的になります。
私は実は、メニエール病以外にも、何度もこの失敗をやっています。たとえば私は、子宮内膜症なので出血が多く、月に3日しか出血の止まる日がない、というのが当たり前になっていました。お医者さんから色々な提案をされるのですが「出血があっても、かまわない(止まったら、どんな状況になるのか想像できない)から、むしろ、もうこれ以上悪くなるのは、ごめんだ」という心境になってしまいやすいのです。

メニエール病の治療を受けたとき、お医者さんは、めまいを治してくれるかもしれません。しかしこれから「想像もできなかった人生」に足を踏み入れるのは、自分自身です。たとえ「めまいさえなければ、人生がもっとうまく行く」と思い込んでいて、治療に一生懸命になっていた人にとっても、想像も出来なかった人生に足を踏み入れるのは、怖いものです。

そして、今まで全力で戦ってきた相手がいなくなった途端に、力が抜けたような状態になるのは、誰しも経験がおありでしょう。それは仕事でも人間関係でも同じ。「あいつに負けたくない」「あいつがいなくなりさえすれば・・・」と思っていた相手が、突然いなくなる、これは非常なるストレスなのです。

メニエール病と付き合ってきた時間が長ければ長いほど、力が抜ける程度も大きいでしょう。

がくんと力が抜けたこの時期を、乗り切ってください。

やがて「新しい人生」に踏み出すのではなく、「今までの人生の続きだ」ということに気づくときが、やってきます。「今まで歩いてきたんだから、これからだって」という気持ちになれれば、しめたものです。
人生はまだまだ続きます。

素人があれこれ考えただけですので、医学的な部分で誤りがあるかもしれません。

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「夜回り先生」の変化(小さな幸せレシピ17)

※※※小さな幸せレシピは、医学的根拠に基づくものではなく、私の趣味に基づくものです。素っ頓狂な方法も含まれている可能性があります※※※

「夜回り先生」として有名になった水谷修先生の本を、読んだことはありますか。 本や水谷先生のお話は、漫画化もされていますし、多数の講演を行なわれてもいますので、夜回り先生をご存知の方は、多いでしょう。

しかし、「夜回り先生のねがい」という本を「これを最後の本とする」とおっしゃっています。もちろん、本に書けないご事情も多数おありのことと思いますが、大きな理由として「子供を追い込んだ大人を憎む」という観点に、偏り過ぎていたことの反省、を挙げられています。

メニエール病が重症化して苦しんでいる人の中には、周囲の理解を得られず苦しんだ、という方もいるかもしれません。また、そもそも周囲とうまく行かない、人間関係のトラブル、過労などでストレスがたまっていて、メニエール病になってしまった、という人もいるかもしれません。私も、そういうところがありました。

今、苦しんでいるあなたに、一つの考え方として提案できることがあります。

その提案の前に、夜回り先生の本についてのお話に戻ります。水谷修先生は、このシリーズだけではなく多数、発売がされています。

しかし、初めの頃のものと、最近のもので大きく異なる点があります。

それは・・・。

「なぜ、子供たちが苦しい状況に追い込まれたのか」

という点を重視する書き方だったものが、段々と

「どうやって立ち直っていったのか」

を重視する書き方へと変わっていっていることです。

ひとつの大きな理由は、「過去を癒してから、未来へ向かう」という方法には、時間がかかるということ、「余計つらくなる」という場合があることなども、理由でしょう。

私にも、医師のもとで、そのような治療(暴露法など)を受けたことがあります。それは、一定の効果があったことは、確かです。しかし一方で「余計つらくなる」時期を、どう乗りきるかという問題も、実感として迫ってきました。私には信頼できるお医者さんがいましたが、水谷修先生のように、たくさんの「生徒」さんがいらっしゃる人が、その全部を引きうけていくということは、あまりにも、大変だっただろうと思います。水谷修先生は「過去のことはいいんだ。今日から生まれ変わるんだ。明日をつくっていこう」という論調に、段々と変わっていかれています。

変わったもう一つの理由として「子供を追い詰めたり、放置したりした大人を憎む、という視点に偏り過ぎたのではないか」という反省を挙げられています。大人だって、何らかの苦しみを抱えていたのではないか? 子どもを追い詰めてしまった後、後悔していたのではないか? 本来、大人とは優しいもので、幸せとはすぐそばにあるもの、それに子供たちが気付く機会を、もっと持てればよかったのではないか? こうした論調に変わっています。

メニエール病は、他の病気や怪我とは異なり、他の人から見て分かりづらい症状が多いです。そのために、周囲の人から怠け、サボりだと思われて、つらい思いをした場合もあるかもしれません。症状が重症化して、仕事や学校を休まざるを得なくなったかもしれません。

しかし、このとき「発病・重症化したのは、自分以外の誰のせい、何のせいであったのか?」を考えることは、この際、やめてみませんか? 水谷修先生もおっしゃるように「今日から、どうやって生きて、どういう明日を作るのか」ということのほうが、大事に思えてきませんか?

もちろん、今後、重症化させないために、「何がいけなかったのか?」を考えることは大切です。しかしそれは、「未来のための分析」であれば有効ですが、後悔であれば、哀しいだけです。

過去を思えば後悔ばかり
未来を思えば不安ばかり

病気のときは、こうした心境になりやすいものです。この言葉は裏を返せば「今」が抜け落ちている、ということでもあります。今つらいのは、あなただけのせいでは、ないかもしれません。誰かのひどい言葉、ひどい行動が原因だったかもしれません。しかし、あなたの人生を誰かに代わってもらうわけにはいかないのも、事実です。

水谷修先生は、最後の本の最後で、子供たちへ「憎んでもいいし、泣き叫んでもいいから、大人に心を開いてみて」と呼びかけています。

メニエール病を理解してくれなかった誰かに、心を開くことは、難しいかもしれません。しかし、怖いのは「どうせ誰も理解してくれない」と、自分から目をふさぐことで、「本当に理解しようと努めている誰か」を締め出してしまうことや、「無理解を反省して、明日をともに作ろうとしてくれる誰か」を拒絶してしまうことです。

私も、人の優しい心がわからなくなった時期がありました。しかし、何年も経ってからですが、その方が「あなたの苦しみを分かった」と告げてくれたとき、何年分もの悲しみ・苦しみが一気に溶けてしまった経験があります。残念ながら「苦しみがわかった理由」が「その人自身が病気になったから」という者だったので、とても複雑な気持ちになったり、むしろ「そんな分かり方なら、してくれなくても良かった」という気持ちになったりしました。

「どうせ誰も・・・」と決め付けないで、少しだけでいいので、心を開いてみてください。

私は、「過去を癒してから、未来へ向かう」という方法にも、一定の効果はあると信じています。私もそれで癒された経験があります。専門家の指導のもとでそのような治療を受けられるのが、理想的でしょう。

しかし、「そこまでは・・・」と思うのでしたら、自分で「自分史」を書いてみる、というだけでも、ずいぶんと癒される場合があります。「ライティング・ヒーリング」という方法が実際にあり、これも専門家の指導のもとで行うことは理想的ですが、自分で書いてみるだけでも、ずいぶんといやされます。また、森田療法という精神療法にも、日記を用いた治療法があります。

私は、かつて書いたことがありますが、読者の体験談を漫画化して、1万円の原案料をくれる(賞を取れば30万円という場合も)、といった企画を行なっている雑誌に、採用してもらって1万円をもらったことがあります。こういう雑誌に投稿して、漫画化された体験談を読むと、なんだか癒されます。どの作品かはおおっぴらには書きませんが、今でもその漫画を手元においています。

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あなた方の「重大さ」の基準が分からない

私は今日、少し体がだるく、うどんも半人前しか食べられずに横になっていた。

すると、部屋の外に足音がして、ばたばたとドアをたたかれた。
「●☆※▼△!!! テレビを見ていたら・・・」
「なんですか・・・?」
「髭男爵っておるやろ」
「漫才の? (正確にはコントかな?)」
「あれのグラスが割れた!!」

そんなことで起こすな!!

あなた方の「重大さ」の基準は分からない。

この前、電化製品を火にくべてしまい、コードが溶けて火花が散っているときにも、起こさなかった。そう、そして「なぜ、すぐ言わなかったのか?」と聞くと「気づかなかったからだ!!」と開き直った。

その前、風呂のカビ取り剤を誤ってまいてしまったときも、呼びに来なかった。「なぜすぐ言わなかったのか?」と聞いたら「洗うつもりだったからだ!!」と開き直った。

それでも、髭男爵のグラスが割れたことは、重大だったというのだな。

そういえば、この前「セシール(通販)の申し込みをしているが、後、数百円買ったら送料が無料になる」といって、たたき起こしに来た。

あなた方は日本永代蔵という有名な書物を知っているだろうか? 「茄子の初売り」について、述べた有名な項目があるのだ。

現代風に言うと、「初売りの茄子がありますよ。普通は2個200円だが、3個買うと250円ですよ」といわれた場合に、でかい蔵を建てられるような金持ちは、2個しか買わないよ、というお話。なぜなら、初物というのは、まだまだ味が成熟していなく、そんな不味いものを3個買うよりは、今、50円を使わず、ためておいて、旬になってから50円を出して多く買うほうが、美味しい茄子がたくさん買えるよ、という話なのだ。

これと同じく「必要もないものまで買って、送料を無料にしてもらうこと」というのが、必ずしもメリットばかり、とは言えないのだろうと思う。

こちらはお金を節約できるので、緊急ではないが重大といえるかもしれない。髭男爵のようなことで、今度起こしにきたら、グレる。

髭男爵公式プロフィール
http://www.sunmusic.org/get/profile/profile_hige.html

髭男爵公式ブログ
http://ameblo.jp/higedanshaku-higuchikun/

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コンドールマン 第2話「吸血モンスターの挑戦」

コンドールマンを観た。チャンネルNECOの放送を録画しておいた。

一般家庭にパンダのぬいぐるみが一杯あるところが、素敵だ。時代をよく表している。

三矢陽子(主人公の姉)と三矢まこと(姪、陽子の娘)は、親子のはずなのに、あまりの似ていなさが、面白い。「三矢まこと」を演じている子役は「香山リカ」っていう名前らしい。香山リカは、リカちゃん人形の本名でもあるので、あの「三矢まこと」の長い髪を見ていると、人形のような雰囲気を狙っているのかなぁと思う。

さて、三矢まことが「お兄ちゃん!!」と助けを求めているとき、まことの顔のまん前にナイフが飛んでくる。あなたはウィリアム・テルですか? 子どもは、知り合ったばかりなのに、そんなナイフを投げるような人を、信頼できるものなのだろうか。。。

今日は、コンドールマンが十字架に磔になっているところで、おしまい。時代は魔女狩りの時代ですか?

さて、今日のサブタイトルは「吸血モンスターの挑戦」だったはずなのだが・・・、吸血モンスターっていつ、どのような形で登場したのだろうか?

さて、来週は「殺しが命ダンガンマー」だ。期待しよう。

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「春の小川」はもう流れていない(小さな幸せレシピ16)

※※※小さな幸せレシピは、医学的根拠に基づくものではなく、私の趣味に基づくものです。素っ頓狂な方法も含まれている可能性があります※※※

「春の小川」という歌を、聞いたことがおありでしょう。

「春の小川」作曲・岡野貞一 作曲・高野辰之
【引用始まり】 ---
春の小川はさらさら流る
岸のすみれやれんげの花に
匂いめでたく色うつくしく
咲けよ咲けよとささやく如く
【引用終わり】 ---

さてイタリックで表現した部分「流る」「如く」は、現代の小学生の言語知識にあわせて、書き換えがされて、音楽の教科書に掲載されています。

「流る → ゆくよ」
「ささやく如く → ささやきながら」

このことの是非については、ずいぶん論議がされていた記憶があります。
「もとの歌のもつ雰囲気を壊してしまう」
「現代の小学生にとって、難しすぎる言葉を遣うと、音楽の授業が楽しくなくなってしまう」
どちらにも、一理がありますし、どちらにも「そうではない」と反論すべき点があります。

「もとの歌のもつ雰囲気を重視するあまり、敬して遠ざけられるような存在になるのも、もったいない」
「現代の小学生にとって、難しすぎる言葉であっても、音楽をきっかけに覚えることができればいいのではないか」
とも言えるからです。

「永久に変わらない」
「時代に合わせて簡単に姿形を変える」

どちらにも利点・欠点があります。

メニエール病の人、特に重症化させてしまう人の性格として「相手の意向によって、自分の意見を変化させることができる」という長所・短所を抱えている人がいます。「さらさら流る → さらさらゆくよ」の変化を肯定できるタイプの人です。

長所・短所と書いたとおり、これは悪い点ばかりではありません。「全員が自分の意見を曲げない」「他人の顔色・その場の空気が読めない人ばかりが存在する」という世界は、おそろしく暮らし難いということは、簡単に想像がつきます。

しかし、困った点もあります。逆に考えてみると、それがわかります。「全員に自分の意見がない」「他人の顔色をうかがう・その場の空気に従う人ばかりが存在する」という世界も、おそろしく暮らし難いです。

「他人の顔色を伺う」ということは、一見「美しい行ない」に見えます。しかしこれは、裏を返せば「自分には、他人の要望にこたえる能力がある」という思い上がりであったり、「他人の要望にこたえて、賞賛を得たい」という自己顕示欲の現われであったりします。「他人の顔色を伺う」ことが、行きつくところまで行ったものがヒステリー性格とか自己顕示欲性格というもの、かもしれません。

一方でメニエール病を重症化させてしまう人の性格として「一度取りかかったことは、とことんやりぬく」という性格を持つ人がいます。「春の小川」で言えば「さらさら流る」を貫くというタイプの人です。

メニエール病患者の中には、この両方が存在します。

「春の小川という歌を、何がなんでも教科書に載せておきたい」という観点からみれば、多少の歌詞の変更してでも載せる、という考え方が一つあります。一方で、何がなんでも「さらさら流る」のままがいい、という人は、教科書から消えようと、どうしようと「さらさら流る」と歌いたいと思うのです。このように「何をメインに据えるか」という価値観の違いはありますが、「とことんやり抜く」「時代の変化を反映する」は両立できるものなのです。

これを人間関係に置き換えますと、「いったん、他人の顔色をうかがい始めたら、とことん知り尽くさないと、気が済まない」というような状態となり得ます。他人からの賞賛、報酬を期待して、自分を抑えて頑張る、ということになります。メニエール病患者自身に、このような性格、行動様式を自覚させることが、治療を進ませるという説もあります。


さて、話は歌に戻ります。
「春の小川」とは、いったいどの川だったのでしょう?
今、「春の小川」はさらさら流れているのでしょうか?

実は、ほとんどその姿を消してしまっています。

なぜなら・・・。

春の小川の流れていた跡には現在「渋谷109」をはじめとする現代的な建物が、がんがん建っているからです。現在残っているのは「渋谷川」として、ほんのわずかの部分だけです。

「春の小川」は「河骨川」という宇田川の支流であった川をモデルとして、作られた歌なのです。

河骨川は、第2次世界大戦後、復興を目指す人々の手で、暗渠化されました。現在は下水道化されています。それは、戦後日本の復興を目指す上では、必要なことだったかもしれません。20年、30年経ったときに、どのような影響が出るか、ということまで、考えられなかったというのは、仕方がなかったのかもしれません。

しかし、現在の渋谷109やその周辺の風景に象徴される若者文化を見て、日本人は手放しで喜ぶことができるでしょうか? 今の春の小川跡地をみて、作詞者・作曲者のお二人は、どう思っているんでしょうか?

川は自分の意思を主張できません。人間の言いなりになるしか、ありませんでした。しかし、長い時間がかかりましたが、自然破壊・環境破壊というものは、簡単に元に戻せないような、重大な問題であることに、人間の側も少しは気づき始めたとも、言えるでしょう。

メニエール病患者にとって、他人の言いなりになること、他人の顔色をうかがうということは、あまりにも当たり前の事ですので、今更そのような行動様式を変えることなどできない、と思われるかもしれません。しかし、今、少しだけ勇気を出すことが、何十年後の自分を変えてくれるかもしれません。今、少しだけ「自分の意見」を持つことが、人生のターニング・ポイントとなるかもしれません。

※※※小さな幸せレシピは、医学的根拠に基づくものではなく、私の趣味に基づくものです。素っ頓狂な方法も含まれている可能性があります※※※

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