私には、とても信頼している人がいて、その関係には「兄のように慕う。妹のように可愛がる」という言葉がぴったりはまると、思っていた。
しかし、最近になり、実際に兄のいる人が「兄貴が、兄貴が・・・」と嬉しそうに話すところや、男性がお父さんのことを「親父が、親父が・・・」と話すところを見て、なんだかとてもうらやましくなった。私には、現実の「兄」はいないし、同性である「姉」もいない。同性の親は残念ながら、いないも同然になってしまった。
最近、下記の本を読んだ。中に「ゴーストライター 瀬尾まいこ」という短編がある。この短編に登場するお兄さんは、残念ながら家族とは距離があったようだ。
の画像
ただ、兄貴や親父というのは、幼少時から一緒にいるものだ。この短編に登場する人たちも、幼少時からずっと一緒に過ごして、そのうえで「合わない」という結果が出てしまったのだ。
私が「兄のように慕う」気持ちを持ったとしても、本当に兄貴や親父のいる人が、「兄貴が」「親父が」という言葉の重みには、近づけない。なんか、この短編を読んで、そのことが強く感じられるようになった。
「兄のように慕う」という言葉には、「何があっても失われない絆が存在する」と信じて疑わないようなイメージがある。
私は以前、そのような気持ちを「世界で一番信じている」と表現したことがある。
http://www.mypress.jp/v2_writers/fuyuu/story/?story_id=1828107【引用始まり】 ---
あるとき「私は、他の人には耳のことを話せないでいるけれど、この人にだけは『耳が聴こえなくなったから、嫌われるかも』なんて心配は、一切したことはなかった」と思った。
「信じられる」というのは、そういうことなのだろう。
【引用終わり】 ---
兄ではなくても、妹ではなくても、世界で一番信じていることに変わりはない。
私の「兄」の中には「次に会える時までに、身辺が落ち着いているように」と祈ってくれた人もいて、残念ながら「落ち着きました」という報告ができなくて、申し訳ないけれど、もうすぐ「兄」に会えるのが、今から楽しみだ。
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