もし私に嬉しいことや辛いことがあったときに、
・親身になって話を聞いてくれる
・あえて深い話を聞かずに待ってくれる
この両方とも、間違いでは決してない。
ただ、時機の違いはある。
どちらの方法によって楽になるのかは、時の流れに応じた私の変化によっても違うし、
「その時、その人が、私の話を聞けるだけの余裕があるか、ないか」
ということも関わってくる。
ある時、私にとって時機の歯車がとってもよく噛み合う人が現れた。
話すのがとても楽だったし、嬉しかった。
何でもその人に話せるという点は、これからも変わらないと思う。
でも、あまりにも歯車が噛み合いすぎたから、その人への甘えが噴出することが少しずつ怖くなった。
今でもその点を怖れてはいるのだけれど、第三者の言葉に気付かされたこともある。
「ふゆうは、その人の話をまるで聞いていなくて、常に一方的に話しているの?」
「その人も、話したくて話しているんだし、聞きたくて聞いているんじゃないの?」
そうだね。
歯車が噛み合ったと感じたのは、私だけではなかったのかもしれない。
話しているとき、その人の表情も語調も全く変わる瞬間が来るのを、私は知ってる。
どちらの表情が好きだとか、嫌いだとかではない。
たとえば「炎」にも静かに燃え続けるタイプのものと、瞬間的に強いパワーを放つ華やかな炎がある。
その人の表情にも、そういう違いがあるし、表情の変わり目を私にはちゃんと見せてくれるのだ。
今、その人はどういう気持ちなのか、私にも少しずつ分かるようになってきたのかもしれない。
そう考えると、少し救われる。
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