人間が生きるためには、動植物の命をいただかなければいけない。
「全く他の何も犠牲にしないで生きる」
ということは不可能だ。
人間には罪の意識というものがあるけれど、毎日毎日
「命を犠牲にして……」
と考えるのはつらすぎるから、生きていくために必要な犠牲について、気持に蓋をしているところがあると思う。
だからこそ、
・感謝していただく(「いただきます」という言葉を言うとか)
・時には供養といった儀式を行う
という習慣があるのだろう。
そして、食材を無駄にしたり、腐らせて捨てるなどの時には、どうしても罪悪感がつきまとうものだ。
「自分と、自分以外の人」という関係においても同じことが言えると思う。
他人に貢がせたり、パシらせたり、尽くさせたりしながら生きていると、どこか罪悪感を持ってしまう。
・してくれる相手に感謝し、言葉にする
・時にはその用事を代わったり、別の形で相手に貢献したりする
・仕事として報酬を払う
などのやり方で、世の中のバランスが取れていくのだろう。
しかし、家族や友人との付き合いの中で、
「何かをしてくれて当たり前」
「尽くしてくれて当たり前」
というタイプの人にも出会う。
でも、彼らにまったく罪の意識がなく、平気で他人に犠牲を強いているのかというと、そうでもないように見える。
いつも尽くす側、犠牲になる側だった人が、
「なんで、私だけがやらなきゃいけないのっ!」
「もういやだ!」
ってキレたときに、ヒステリックに反論したり逆ギレしたりする人は、心の中にいくばくかの後ろめたさを抱えているからこそ、そういう態度に出るのだろう。
全く罪の意識がないように見えるとしたら、
「そもそも犠牲を強いていたこと、そこまで負担になっていたことに気付いていない」
ということのほうが多いような気がする。
キレられたことで、彼らは罪悪感を抱くようになるかもしれない。
なんか、まとまりがなくなってきたけど、次のようなことを、今後も考えていきたいと思う。
・誰ひとり、何一つも犠牲にしないで、幸せになるのは不可能だ
・その代り、報酬・感謝・その他の方法で「一方的な犠牲」に終わらせない配慮が大切だ
・誰かに犠牲を強いておいて、完全に平気で幸せになれるほど、人間の心は単純ではない
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