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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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変化の始まりと焦り

2009年2月6日、外科のM先生から「転勤する」と告げられました。「でも、良かったやん。後任はS先生やで」と。そう、「私が腸穿孔の写真を見せたせいで、ふゆうのおばあちゃんが悪くなったんか?」と気にしていたSさんが、M先生の後任として赴任されることになったのです。

「S先生は、僕の後そのまま引き継いで、外来担当されると思うから、一番初めに入れとこう」
「なんてことを!!」
朝の9時なんかに入れるんじゃない・・・。どんなに早く起きなあかんの・・・。

「まぁ、ふゆうさんのサマリーは書かんでも、S先生がよくご存知やと思うから」
「はい」
「そう言っといて」

「M先生、元気でね」
「うん、じゃあ(笑)」

そして、これがM先生の最後の診察になりました。

M先生に、祖母の人工肛門のこと、バッグの交換のこと、聞いてもらってずいぶん楽になったことを思い出したら、まぶたが熱くなりました。結果的にはM先生に「がんばれよ」と、疲れていた気持ちを癒してもらった2日後に、祖母は天国へと旅立ったのでした。

2月17日、意を決して家族に訴えることにしました。「家事を二日間だけ、休ませて欲しい」と。

その前に「掃除機をかけながらごみを拾ったら、立てなくなった」ということがありました。立とうとしても足に力が入らず、かといって「立てない」と焦るわけでもない。そんな自分が少し怖くもありました。

内科医院の先生にその話をしてみると「よくわからないなぁ・・・。自律神経の問題かなぁ・・・。食べられなくなったら点滴するけど・・・」とおっしゃいました。

それでともかく、家族に話してみました。

「すみません、どうにもならない事態になってきたので、2日間だけ家事を休ませてほしいんですけど・・・」

家族の衝撃度合いというのは、まぁすごいものでしたが、それでもともかく「一週間、他の家族でやってみる」という話になりました。その上で「今後は、ふゆう一人の負担にならない方法を考えようと思う」とも。そして、実際この一週間というものは、本当に楽をさしてもらいました。

さて、うつ状態というのは、本当にひどいときは、何も考えられないものです。しかし、少し元気になってくると「考える」というよりは「焦り」という気持ちが出てきます。

「こうして楽をさせてもらっているのに、私の体調が良くならないのは、いわゆる『怠け』なのではないか?」

冷静に考えてみると、単に休養が足らないだけなのですが、少しでも元気になってくると焦り始める。この心理は、真面目で几帳面なメニエール病患者の方には、よく分かっていただけることと思います。私もたった1日休んだだけで、2日目には焦りを感じるようになりました。

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怒りの焦点がずれていく

2009年1月10日夜に、めまいを感じてイソバイドを服用したというメモがあります。この日のことは、はっきり言って記憶にありません。

記憶にあるのは翌日、1月11日のことです。朝起きたら、体調がとんでもないことになっていました。回転性めまい、喘息、腹痛、吐き気、不正出血と、ありとあらゆる症状が一気に襲ってきたのです。イソバイド、ボルタレンSR、ナウゼリン、デパスと、家にあるだけの薬を飲んでしまいそうな勢いでした。

そしてはっきりと難聴になっていることは、感じました。家族の声が、音としては聞こえるのですが、何を言っているのか分からない、という状態が続いたものでした。

1月13日に内科医院を受診。「喉が腫れているんで、風邪の薬を飲んで、喘息を悪化させないようにしよう。それと無理をせずにゆっくり休んで、風邪を治しましょう。風邪を引いたり、メニエール病の症状が出たりするってことは、体のどこかに無理が来てるってことやから、まずは休んで」と先生はおっしゃいました。

それから再び喘息手帳への記録は途切れています。体調の悪化により、記入する気力がなかったのでしょう。


1月21日、Sさんに会うことができました。Sさんに「メニエール病のこと」「内リンパ嚢開放術のこと、執刀医の先生のこと」「友人から絶縁されたこと」を相談している様子が記録されています。

1月22日、再びルナベル配合錠を飲み始めました。しかしこのとき、普段以上に強い副作用(だるい、不正出血など)に戸惑っている様子が、一時的に記録された後に、記録は途切れがちになります。

この時期のうつ状態は、ものすごいひどいものでした。
体は動かない、食事は取れない、何時間も眠り続けるかと思えばまったく眠らない日もある、など、ひどい状態が続きました。

そして相変わらず、両親と弟とはうまくいきませんでした。家事をしない日があったり、両親や弟が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。

両親の気持ちが変化し始めていることは、わかっていました。「一人で介護をさせて悪かった」と思っていることは十分、分かっていました。

だからこそ私の口から「今になってそれを言うなら、介護を代わって欲しかった」という言葉が出ることを、両親が恐れていることを、私は分かっていました。

「代わって欲しいと頼んだのに、何もしなかったじゃないか」
「私の仕事をろくでもないと思ってるから、一人で介護をさせたんだ」
「どうせみんな、祖母と同じじゃないか」
「どうせみんな、私のことをろくでもない人間だと思っているんだ」

これらの言葉を言ったら、両親や弟の心を痛めてしまう。悪かったと思っているところを、さらに攻撃してしまう。顔を合わせたら、言わなくてもいいことを、言ってしまう。

だから私は「会わない」ことで「言わない」で済まそうとしたのです。

そして、矛盾するようですが、もう一つの思いが私の中にはありました。

「介護を丸投げしたこと」を私は怒ってはいるけれども、それと「メニエール病のことは別」だと思うようになったのです。
しかしどうやら、両親や弟は「一人で介護させた結果として、メニエール病が再発してしまった」ことを、どう受け止めていいか分からない状態になっている、問題を混同しているということに、私は気づいていたからです。

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キレるようになる

2008年11月15日、喪中ハガキを印刷する作業をしていました。数日前からいくつかのデザインを両親に示し、文章を書き上げ、この日は印刷作業をしていました。13時ごろから、徐々に体調が悪くなり始め、吐き気やめまいを覚えていたようです。メニエール病の症状とは違って、不安感が強く息も速く浅くなっていました。

この日を境に、冷や汗をかいて吐き気がする、という日が徐々に増えています。

このころ、不正出血があまりにも続くからと、婦人科でルナベル配合錠を処方されるようになっていました。出血が止まった日は11月30日だけで、後は毎日、32日間にわたって不正出血があった記録があります(あまり記憶には残っていないのですが)。

ルナベル配合錠は健康保険の適用もありますし、色々な低用量ピルを飲んだ中では私に合うと思える低用量ピルでしたので、服用しているという安心感がありました。

しかし残念ながら、事態は悪化してしまいます。

2008年11月後半から12月にかけてははほとんど、「生ける屍」という言葉がぴったりの過ごし方をしていました。人間は二つのことを同時に考えることはできません。メニエール病より大変なことがあれば、まず、その「大変なこと」に対処するものです。

●身体の症状としては
・朝起きられない。何時間でも眠ってしまう。
・食事はロクに取れない。食べなくてもおなかが空かない。
・お医者さんに「口が渇いて舌に歯型が残っている」といわれる
・急性胃腸炎にかかる頻度が高くなる

●精神的な症状としては
・ろくでもない仕事といわれたことが、頭からはなれない
・切られた仕事のことばかり考えてしまう
・死にたいというより、水が蒸発するかのように消えてしまいたい

このような状態では、メニエール病のことを考えるどころでは、ないのです。

そして、母の言葉が耳に残って離れませんでした。
「祖母の介護をしてくれるようには頼んだけれど、それは『最低限の介護』を頼んだだけであって、『熱心にやってほしい』とは頼んでいない。『熱心に』介護をしたのは、ふゆうの勝手なのだから、それで体調を崩そうとも、失業しようとも、知らない」

12月19日、外科のM先生に
「この言葉を忘れられなくて、苦しいんだ」と話しています。
M先生は腹部の診察をしながら「それを言った人を、許してあげられるといいねんけど」と言葉をかけてくださいました。

「許す」という言葉を意識したのは、このときが初めでした。
「許す」というのは、相手のためでもあるけれど、それ以上に「自分のため」に大切なこと。

それに気づくのは、数ヶ月後のこととなります。

今となっては、母の言葉も『一人でさせて悪かったなぁ』と思っていたことが、ふゆうが病気になるという思わぬ形で、現実として突きつけられ、右往左往してしまった結果の、とっさの言葉だったのだろうと、分かります。
しかし、それに気づくことは、当時の私はできませんでした。

私は時々「キレる」ようになっていました。「キレる」といっても、さすがに暴力を振るうわけにはいきませんので、例えば突然、家事をやめてしまうとか、両親が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。

さらに「何か不満があるのなら、いってほしい」と両親が譲歩してくれようとしたときには、私は言うてはならないことを言いました。

「仕事と耳と卵巣を元に戻して」

こう言ったら、両親はもう何も言えなくなってしまいます。わかりながら、そう言ったのです。

「そうだよ、勝手に介護したんだから、そして自分でメニエール病を再発させたんだから、自分で卵巣の機能を止めてしまったんだから、もう放っておいてくれ」


自分の精神状態は荒れるのを通り越し、やがて無気力になっていきました。食事をろくに取っていないのに、体が浮腫んで体重は増加しました。

体のむくみは、メニエール病を悪化させます。内リンパ水腫は内耳のむくみですので、体全体がむくんでいるときには、当然ながら内耳のむくみも悪化するのです。

それでも何とか、自分の心身の状態を向上させようと、12月24日に精神科の先生に「抗うつ剤を出してほしい」とお願いしています。しかし先生の返事は「気持ちは分かるが、今はおばあちゃんがいなくなったことで、動揺しているのだから、そういう気持ちを抗うつ剤で抑えるべきではない。大丈夫ですから」でした。

12月には、良いこともありました。それは私が送ったクリスマスカードを、お医者さんたちが喜んでくださったことです。外科のM先生は、12月19日の診察のときに「ほら、ここに飾ってるで!!」と、診察室の机の上に飾って見せてくださったものでした。また、内リンパ嚢開放術の執刀医の先生からも、お礼のメールを頂きました。他の先生からも「ありがとう」と言われて、喜んでもらえてよかったと心から思いました。

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失った友情

2008年10月16日から、喘息手帳と基礎体温表への記録が再び始まっています。しかしその内容は投げ遣り、いい加減、鎮痛剤の使用状況もまるで分からないような書き方です。

おそらくは不正出血が始まってしまったために、とりあえずは記録を再開したものの、意欲的に書くということはなかったのです。その証拠に、2,3日ほど続いて、不正出血が止まると、記録内容も投げ遣り、いい加減、飛ばし飛ばしになっています。

実はこのとき、私には気になっていることがありました。相手方のプライバシー保護のため、日付をぼかして書きます。

私は介護中であったために、ある方の結婚式への出席ができませんでした。本当はその人の結婚式に、出席したい気持ちは強かったのです。ただ、父方の祖母、母方の祖母、二人ともがいつどうなるか分からない状態では、直前になってキャンセルする可能性も高く、迷った末に出席を辞退しました。

お祝いは祖母の介護の合間に、時間を見つけて選び、贈らせていただきました。

祖母が亡くなったこと、そして私が体調を崩していることは、結婚式後のいつのタイミングでお伝えすれば、相手方のお祝い気分を壊さなくて済むかと悩みました。

ちなみに、メニエール病を重症化させてしまう患者には「他人の目を気にする」という性格の傾向があります。このことは、ちょうど良い程度に気にする分には、人間関係を円滑にしてくれる、すばらしい特質となります。

しかし過剰に気にするようになると、患者本人にとっても苦しいし、周りにとっても「気を使わせていることが分かって苦しい」という状態になります。特に冠婚葬祭のことで気を使ったり、使われたり、あるいは失礼なことがあったりすると、お互いに一生の思い出となって残ってしまいますので、うまくいく方法があればいいのにと、今も思います。

さて、こうした悩みの中に、ある方からの救いのメッセージが届きます。
「そうした悩み事というのは、すぐに解決はできないだろうし、多くの人が悩む事態だと思う。ストレスがなくゆったりとした生活を送るように、というのがメニエール病患者へのアドバイスとして言われているが、非現実的なアドバイスをしても、どうしようもない場合もある。そういう場合に、メニエール病を悪化させないためには次のことを守ろう。
 ●水分を良くとり、運動をして汗をかくことを、心がけよう。
 ●そうすることで、体の実質的ストレスを減らすことができ、内耳への影響を抑えられる。
 ●またイソバイドを飲むなら、適量を見つけるということも大事」

私はこの日から、買い物に行くときなどに、少し早足で歩くことを心がけたり、生姜湯を飲んだりという努力を、少しずつですが、始めるようになります。

11月のある日、私のもとへ一つの小包が届きます。

小包に入っていた、結婚式へ出られなかった私へのメッセージ。それは「この人は、今後の付き合いはやめたいと思っているんだな」と、思えるものでした。

友達だからこそ「介護で忙しい」ということは、わかってくれると思った。
でも、その相手にしてみれば、友達だからこそ「介護を差し置いてでも結婚式に出てほしい」という思いがあったのかもしれない。

この連絡をほぼ最後として、残念ながらこの友達との絆は、失われてしまったのだと思います。

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運命の日と空白の一週間

2008年10月7日、この日は半年に一度の聴力検査の日でした。通い慣れた病院ですので、特に不安も緊張もなく「帰りにはガストによろうかな」と考える余裕もありました。

しかしこの日、耳鼻科の主治医Y先生は、意外な事を言いました。

「どうしたん? 調子悪かったかな?」
「え? 何も悪くは・・・」
「ほら、聴力ね、低音部が聴こえなくなってる。メニエール病の治療を再スタートしましょう」

言葉が出ないほどの驚きでした。

「めまい、耳鳴り、その他、何もなかったとは考えづらいんですけど、いかがですか?」
「えぇ・・・? あ!!」
「あ?」

「あの、急に今言われたのでびっくりしてるんですけど、パニック障害とか、そういう問題だと思って、デパスとかを飲んでやりすごしたことはあります。あと、吐き気とか、ふらふらする感じ(浮動感)というのは、パニック障害だった場合と見分けがつかないので・・・」
「まぁ、分かる気はします。ストレスがかかったら、メニエール病が悪化することもあるし、まったく精神科の問題と、この難聴、メニエール病の症状が別のものかどうかって、私も問われたら分からないですね」
「そうですよね」
「ただ、聴力は落ちているという現実があるので、メニエール病の症状が出てたことは、多分間違いないでしょう」

このときの気持ちは「?( ̄□ ̄)やられたぜ!!」という感じでした。

そう、一気にすべての事象が思い起こされ「あれはメニエール病再発の兆候、というか『再発の兆候』の予兆だったのか」と気付かされたのです。

「で、イソバイドを出します」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「今日からすぐ飲めとはいいませんが、もしも悪くなったら服薬して、また受診を必ずしてくださいね」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「次の予約は半年後にしますが、それは厳密に守らなくてもいいので、悪くなったら受診してください」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」

ただ一つ、現在の主治医の先生にお聞きしたことがあります。

「あの、私が鈍感だから?」
「え?」
「精神科の症状と思い込んでて、分からなくて」
「あぁ、鈍感いうのとは、ちょっと違うと思いますけどね」

この質問に、どういう意味があったのか、私自身もわからないのです。ただあまりにも急の出来事で、本当に驚き、うろたえて発した質問だといえます。

肝心のこの日から一週間ほど、私の基礎体温表、喘息手帳には、まったく記入がなくなっています。日付すら書いていません。完全なる空白の状態です。よほどのショックで、何も書きたくなくなったのでしょう。

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