2009年1月10日夜に、めまいを感じてイソバイドを服用したというメモがあります。この日のことは、はっきり言って記憶にありません。
記憶にあるのは翌日、1月11日のことです。朝起きたら、体調がとんでもないことになっていました。回転性めまい、喘息、腹痛、吐き気、不正出血と、ありとあらゆる症状が一気に襲ってきたのです。イソバイド、ボルタレンSR、ナウゼリン、デパスと、家にあるだけの薬を飲んでしまいそうな勢いでした。
そしてはっきりと難聴になっていることは、感じました。家族の声が、音としては聞こえるのですが、何を言っているのか分からない、という状態が続いたものでした。
1月13日に内科医院を受診。「喉が腫れているんで、風邪の薬を飲んで、喘息を悪化させないようにしよう。それと無理をせずにゆっくり休んで、風邪を治しましょう。風邪を引いたり、メニエール病の症状が出たりするってことは、体のどこかに無理が来てるってことやから、まずは休んで」と先生はおっしゃいました。
それから再び喘息手帳への記録は途切れています。体調の悪化により、記入する気力がなかったのでしょう。
1月21日、Sさんに会うことができました。Sさんに「メニエール病のこと」「内リンパ嚢開放術のこと、執刀医の先生のこと」「友人から絶縁されたこと」を相談している様子が記録されています。
1月22日、再びルナベル配合錠を飲み始めました。しかしこのとき、普段以上に強い副作用(だるい、不正出血など)に戸惑っている様子が、一時的に記録された後に、記録は途切れがちになります。
この時期のうつ状態は、ものすごいひどいものでした。
体は動かない、食事は取れない、何時間も眠り続けるかと思えばまったく眠らない日もある、など、ひどい状態が続きました。
そして相変わらず、両親と弟とはうまくいきませんでした。家事をしない日があったり、両親や弟が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。
両親の気持ちが変化し始めていることは、わかっていました。「一人で介護をさせて悪かった」と思っていることは十分、分かっていました。
だからこそ私の口から「今になってそれを言うなら、介護を代わって欲しかった」という言葉が出ることを、両親が恐れていることを、私は分かっていました。
「代わって欲しいと頼んだのに、何もしなかったじゃないか」
「私の仕事をろくでもないと思ってるから、一人で介護をさせたんだ」
「どうせみんな、祖母と同じじゃないか」
「どうせみんな、私のことをろくでもない人間だと思っているんだ」
これらの言葉を言ったら、両親や弟の心を痛めてしまう。悪かったと思っているところを、さらに攻撃してしまう。顔を合わせたら、言わなくてもいいことを、言ってしまう。
だから私は「会わない」ことで「言わない」で済まそうとしたのです。
そして、矛盾するようですが、もう一つの思いが私の中にはありました。
「介護を丸投げしたこと」を私は怒ってはいるけれども、それと「メニエール病のことは別」だと思うようになったのです。
しかしどうやら、両親や弟は「一人で介護させた結果として、メニエール病が再発してしまった」ことを、どう受け止めていいか分からない状態になっている、問題を混同しているということに、私は気づいていたからです。
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