かつて、急に「鼓を叩いて欲しい」と頼まれたことがある。お神楽の奉納に人手が足りないため、稽古できる時間が2週間しかないのだが、どうか引き受けて欲しいと。鼓をどうやって手に取るのか、演奏時にどうやって構えるのかといったことも、一から教えていただきながら、慌てて稽古をした。
鼓というのは、一人前の音を出すには、時間がかかるといわれている。私の場合には、急場しのぎだったので、稽古の仕方としては邪道なのかもしれないが、まず「数を打つ」ということをした。下手でもいいから打っているうちに、音量としては小さくても「いい音」「すぱーんっという音」が出ることがある。その「まぐれでいい音が出た」ときに、どうやって打ったのかを憶えておいて、その打ち方を再現していく。これの繰り返しで、なんとかお神楽に間に合わせることができた。
鼓を叩いている本人には「他人にどう聴こえているのか」というのは分からない。自分の耳元に音源があるのだから、たとえ自分が「いい音だ」と思ったとしても、少し離れたところで聴いている他人には、どう聴こえるものか、不安だった。そのときに「肩に乗せた鼓を叩くと、音が背中側に広がっていくイメージ」を持つようにと心がけた。
あるとき、唐突に「鼓膜」を連想した。人間の耳には「鼓膜」というものがあって、鼓膜を震わせた音が、中耳へ内耳へ、そして脳へと伝わっていく。鼓を叩くことと似ているな、と思った。
さて「耳鼻科医の診療日記」というブログで、最近よく勉強をさせていただいている。
http://jibika.exblog.jp/「鼓膜の図」が紹介されているのだが、初めてこの図を見たときに「綺麗だなぁ・・・」と思った。思わず見とれた。
http://jibika.exblog.jp/10242515/人間は、鈴の音とか、ハンドベルの音、オルゴールの音などを「心地良い」と感じることが多いようだ(私もその一人だ)が、この鼓膜の図を見ていると「そういう音を好むのは、人間の中の鼓膜という器官なのではないか?」と思えてしまう。
人間は音を聞いて「楽しい」と思う。そこには人間のイマジネーションというものが関連してくる。たとえばこれからの季節、風鈴の音というのが増えてくることだろう。風鈴の音は「単なる音」のはずなのに、そこに「涼しげだ」というイメージを持つことができるのは、人間に与えられた「イマジネーション、想像力」というものが大いに関連してくる。また、セミが鳴いていると、それだけで「暑いなぁ」ってイメージを持つし、雨の音が聞こえると、急に気温が下がるイメージを持つ。
また「単に音を出す」という行為に、「楽しい」というイメージを付け加えることで、「楽しい音」というのを作ることができる。実際に、鼓を叩くという行為に「肩に乗せた鼓を叩くと、音が背中側に広がっていくイメージ」を乗せることで「いい音が出せる」という面があったのは、こうしたイマジネーションの力なのだろう。
何らかの病気や怪我などがあって、鼓膜や中耳、内耳の働きが十分でなくなったとしても、人間には「イマジネーション」の力があるから、音に乗っていた「楽しさ」をイメージすることができる。
人間のゲノムをおつくりになった神様か、仏様か、そういう大いなる存在は、時として「みんなとは違う人」を作ることがある。私の耳も「みんなとは違う耳」なのかもしれない。
でもそういう「大いなる存在」とでもいうべきものは、なぜか「イマジネーションの力」を、私に残してくれている。
このことから、私が学ぶべきことって、何だろう?
それは、一生かけて答えを出すべきことなのかもしれないし、明日、答えが見つかるのかもしれない。
そして、できれば、イマジネーションの力を、悪い方向ではなく、何か素敵な方向へと使っていきたいと思う。
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