私は子どもを持ったことがないから、分からない点もあるのかもしれないけれど。
知り合いにA男(30代)という人がいる。
A男の両親が、ある時、
「きつく言うと拗ねるから、もう言わない」
と言った。
あれ?
どこかで、同じ言葉を聞いたぞ?
と記憶をたどってみると、A男が10代の時に、ご両親がそう言っていたことを思い出した。
確かに、30代になった大人が「きつく言うと拗ねる」ならば、周りの人だって面倒くさいし、A男の性格を変えなければいけない義務とか責任は周りの人にない。
だから「きつく言わない=つまり対等な相手と考えない」という周りの人を責められないと思う。
実際、A男については「言いたいけど我慢しておく。面倒だから」という空気が、周りの人に流れていることは感じる。
でも、A男が10代だったときや、5歳児だったときには、
「拗ねても、問題は解決しないよ」
「拗ねれば拗ねるだけ、人は離れていくよ」
と誰か(多くの場合は親)が教えなければいけなかったのではないのか?
そして、もう時間が経っているから記憶にないだけかもしれないが、
「A男が、きつく言われたから拗ねた」
という場面が、私の記憶の中でそう多くない。
確かに、10代のA男を思い出してみると、「はい」「やります」という言葉より先に、反発の言葉が出てしまうタイプだった。
本当にやりたくないのではなく、「ともかく人の言葉は否定したい」という条件反射のようなものだったと思う。
では「やらないのか?」というとそうではなく、10分とか30分ほど経てば、やるべきことをやっているという記憶が、私の中にある。
A男のご両親の「きつく言うと拗ねる」という認識と、私の「一言多いが、時間が経てばやることをやってはいる」という認識。
どこで行き違い、記憶の違いが生じてしまったんだろう?
結論は出ていないけれど、人間は「拗ねても問題は解決しない」ということを、いつ学ぶのかなぁと、なんだか考えてしまった。
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