私は以前
「認知症とは、物忘れがひどくなったり、どこにいるのかわからなくなったりする状態だ」
と思っていた。
それは認知症の一部でしかなく、それ以外にも多彩な症状が出る。
私の祖母は、在宅時から料理の手順・味付けがおかしくなり、新しいことをおぼえられなくなり、さらに膝が悪かったのでトイレに間に合わないといった問題もあった。
命の尽きる頃は、病院に入院していたのだけど、
「(病院で)掃除する人が、ティシュペーパーを盗む」
「(4人部屋の)他の患者さんが、自分をのけ者にして話をしている」
「(昼食で出された食器で、米飯を食べた後)この入れ物に薬を入れておいたのに、なくなっている」
などの訴えが出るようになっていたし、言葉がなかなか出ないときは物を投げることもあった。
アルツハイマー病患者として最初に報告されたアウグステ・データーさんも、嫉妬妄想が始まりだったそうだ。
自分は認知症による妄想・幻覚というを体験したことがないので、想像することしかできないけれど、
「何かを疑っているときは、心がしんどい」
「信じられるものがあるときは、心が軽い」
ことは分かる。
そして、まだ認知症にかかっていないときなら、「疑いの念そのものをコントロールする」ということが、ある程度はできる。
でも、認知症の症状の中で、嫉妬妄想、被害妄想、物盗られ妄想といった症状が強く、自分でもどうにもならない疑念が次々と湧いてくる状態とは、どれほど苦しいものだろうか?
私自身は信仰心の篤い人間でもなんでもないけれど、祖母が最期の日を迎える3日前、
「もう神様を信じない」
と言ったときに、私は心が凍りついて、そのままガラガラっと崩れたような気持ちになった。
信仰心がどうとか、神様が本当にいるかという問題ではなくて、
「80年間信じてきたものを、もっとも信じたい、救われたいはずのときに信じられなくなる人生が、果たして幸せと言えるのか?」
と、その後、何年間も考えてしまったものだった。
今、私は信じることができる人がいることを、幸せだと思う。
自分の言葉を聞いてくれる人がいることを、ありがたいと思う。
でも、ふとした折に、祖母の疑いの対象となり続けた日々のしんどさや、心が凍りついた瞬間のことを思い出してしまう。
もし、「今が幸せだ」ということを、こんな方法で確認しようとしているのなら、私も相当、根性が曲がっているのかもしれないけれど。
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