メニエール病再発の記録
http://fuyuu.at.infoseek.co.jp/op/saihatsu.html2009年6月28日、付記します。
先日、ラジオをかけながら仕事をしていました。すると、レベッカの歌う「フレンズ」が流れてきました。友情と愛情との間で揺れる心、最も近い人だったからこそ、離れるとなったら最も遠い人になってしまうという悲しみを歌ったこの歌が、私は大好きです。
この日も、ラジオと一緒に口ずさみながら、仕事を続けようとしたのですが・・・。
話は変わりますが、私は以前に電話恐怖症になったことがあります。ある人が、夜中に泥酔した状態で電話をかけてきて、数時間にわたって暴言を吐き、さらに「家に行く」と恫喝され続けたという経験があるのです。電話恐怖症はやがて、対人恐怖症にまで発展し、数ヶ月ほどは苦しんだのを憶えています。
私自身がようやく冷静に考えられるようになったとき「『傷つけてしまった』と後悔する人の傷って、どれほど痛いんだろう」と思うようになりました。その人にとってみれば、たったの一晩、数時間の失敗だったのに、立ち直れなくなっている私を目の当たりにすることは、どれほどつらいだろうと。私の受けた傷なんかより、その人の傷のほうが痛いんじゃないかとさえ、思えました。
最近「アイシテル―海容―」がドラマ化されました。先日、最終回が放送されたようですね。「海容」という言葉のとおり「海のように広い心で、許しあうことができる」という点が、親子間、兄弟間、加害者被害者間などの様々な間にちりばめられた、奥行きの深い物語だと思います。
私が原作で印象に残っているのは「加害者の痛み」ということです。これは事件の加害者・被害者だけではなく、親子喧嘩などのレベルであっても「自分が相手を傷つけていたことに気づく」という瞬間が、物語のあちこちにちりばめられていて、加害者の痛みというのは、被害者のそれよりも大きくて深くて、ショッキングで複雑なものという感じがします。
さて、レベッカの歌う「フレンズ」を聞きながら思ったのは「病気の人とは付き合えない」といった私の元友人のことです。「ショック」よりも「うまい言い方だという感心」が勝ってしまった、それは本当の気持ちでした。
このたび、どういうわけか「他人よりも遠く見えて」「どこで壊れたの」「二度と戻れない」といったフレーズを聞きながら、私の元友人がいつか「自分の与えてしまった痛みに、気づいてしまうのでは」と思いました。どうしてか分かりませんが、その痛みを想像すると、胸が苦しいのです。
かつて私を電話恐怖症に陥れた人とは、結局、和解ができませんでした。私の傷が癒えるのに時間がかかってしまい、謝罪したいという言葉を受け入れられないままになってしまったのです。それは私の側の治癒力の問題であって、相手が責任を取るべき範囲というのは、超えていると思っています。
もしもこれから先、元友人が「病気の人とは付き合えない」という言葉について後悔することがあったとしても、あなたが胸が痛くて俯いてしまうことのほうが、私はつらい。だから、どうか痛みを引きずるよりは、「他の人には決して言わない」という方向に、力を注いで欲しい。そう願っています。
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