私はとても苦しい。苦しいのはこの部分。
発砲立てこもり「自殺した男が銃用意」…闇サイトで知り合う
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080603-00000064-yom-soci【引用始まり】 ---
金子容疑者は1992年1月、仲間の男らと東京都杉並区の外科医を誘拐し、身代金3000万円を奪った。同年12月、身代金目的誘拐などの罪で東京地裁から懲役14年判決を受けて服役。2006年2月に岐阜刑務所を仮出所していた。
【引用終わり】 ---
今朝、テレビのニュースで「誘拐事件の被害者にわびる気持ち」をつづった手紙が公開されていた。
私は、ある出来事で私に加害をしてしまった人から「わびたい」という気持ちを告げられたことがある。私も甘いのかもしれないけれど「わびてくれるなら、もういい」という話にしてしまった。正直、「あまりにショックが大きすぎて、怒る気力もなかったし、身体的にも相当な無理が来ていたので、いえなかった」という部分がある。
しかし、私が「もういい」としたその人は、再び他の人に加害をしてしまう。そのとき「前(私に加害したとき)に怒られなかったから、たいしたことだと思わなかった」という言葉、さらには「怒ってくれていたら、もうしなかった」という言葉が出ていたことを知り、苦しくなった。他の人が傷ついたのは、私のせいだったのだと、自分を責めた。
私は、今朝のテレビで報道されていた「わびる気持ちをつづった手紙」には、100パーセントが虚構というわけではなく、本当に悪かったという気持ちが、感じられるように思う。
しかし、世の中には「自分というものが確立されていない」というタイプの人がいる。悪い人と知り合えば悪いことをするし、よい人、よい環境(刑務所などの)におかれれば、善行を積む、というタイプの人がいるのだ。手紙のなかにあった「謝罪」の気持ちにうそはなく、一方で世間に戻ったときには、すっかり「犯罪を平気でする」というほうに、戻ってしまう。そうしたタイプの人に、私は見える。
私はこうした人を見るたびに、自分のよくなかった点を、反省しなければならない。私が「限界を超えていて、対処できない」という理由で、きちんと対処しなかったことが、次の被害者を生み出したことを、今後もずっと反省しなければならないのだ。
また、私には「謝罪をしたい」という言葉を受け入れるか、やめておいて一生関係を絶つか、という両極端の選択肢しか、なかったときがある。おそらく「謝罪のみは受け入れるが、今後は付き合わない」といった手段もあったのだと思う。
「意地でも謝りたい」と迫ってこられる、という事態に慣れていなかった。
私は甘いのかもしれないが、相手が「根っからの悪人」とは思えない。ただ、自分に対しては、最悪の部分がちらっと見えてしまっただけで、全人格的にいえば、いいところだってあると思う。
こうした甘さが、「怒らなかったから・・・」という言葉につながったのは、私の至らないところだ。
私は、こうした事件を見聞きするたびに、胸が苦しくなる。冷や汗をかいて、動悸がばくばくする。
「悪かったです。今後は・・・する」
こうした手紙の書き方が、既視感覚を呼び起こすのだろう。
今も苦しくて、吐き気がする。毎月のように、体調が悪いときにパニック発作(外傷性ストレス障害の一環として)を起こしてしまうし、今もこうしてキーボードをたたいてないと、泣き出してしまいそうに思う。
「悪い人じゃないんだよ」
この思いを「いけないこと」と考えなければならないことが、どうしても悲しい。
それでも。
私がそうした闇の中から立ち直ることができたのは「ふゆうちゃんは、悪い子じゃないんだよ」と、言い聞かせてくれた人々のおかげだ。
そして、たんなる「死んじゃだめだよ」という言葉より「今日は、死んじゃだめだよ」といわれる約束のほうが、なんだか守れていたような気がする。うつ状態に陥っていると、将来のことが考えられないから。
ともかく生きる「今」を積み重ねていくためには「今日は」死んじゃだめ。「明日」はやがて今日になるから。「今日は」死んじゃだめ。
「あなたは悪い子じゃないんだよ」「今日は死んじゃだめだよ」と噛んで含めるように、言い聞かせてくれた人々に感謝したいと思う。
私は、甘いのかもしれない。許すべきじゃなかったのかもしれない。
その答えを出すためには、生き続けなければならない。
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