ABCラジオで「外島保養院」についての特別番組があった。
「大阪外島保養院物語 ハンセン病隔離政策100年を問う」
外島保養院は、大阪・西淀川に1909年から1934年まで存在した、ハンセン病療養所である。
なぜ、この番組に興味を持ったかというと、祖父が「老人性結核の疑いあり」とされたときの経験を思い出したからだ。祖父は若いときに結核にかかったので、年老いて現れた症状を総合的に判断されて、国立療養所・千石荘病院を紹介され、入院治療を受けていた。
さらに患者家族も、何度も保健所に呼び出されて、けっこうバタバタした。
そのとき祖母から「結核という病名を、絶対に他人に言ってはならない」と厳しく、しつこいほどに言われていた。私は高校3年になったばかりで「周りはみんな受験生で、そのような病名を聞かされたほかの人が、ショックを受けるかもしれないから、黙っていたほうがいい」と自然に思えた。
後に思えば、祖母は「結核ということがわかれば、他人から嫌われる」という思いが、ものすごく強かったのだろう。祖母のレントゲンに「カゲがありますね」と言われたのだが(偽影でした)、そのときの狂乱ぶりは唖然とするほどで「結核になって生きるくらいなら、死んだほうがマシだ」という言葉を、延々と聞かされ続ける羽目になった。
「黙っていよう」と思えば思うほど、人目が気になってしまうのが、不思議だった。「私は、つい口をすべらせて、誰かに何か言ってしまったのでは?」という気持ちにすらなった。
千石荘病院は少し遠いので、祖父の見舞いと、家事と、自分の受験勉強で、肉体的にもなんだかクタクタになっていったのをおぼえている。
外島保養院についての番組は、私の耳では全てを聞き取ることはできなかったのも本当だ。ただ聞きながら、千石荘病院へ祖父に会いに行ったときのことを、思い出した。
外島保養院にいた人たちには、このように気軽に見舞う・見舞われることもなかったのかもしれない。幼少時からずっと、療養所内で過ごさなければならない人もいたそうだ。
また、ハンセン病患者を隔離する政策は、あまりにも長く続いたため、強制的な隔離が行われなくなっても、療養所での生活を選ばなければならなかった人もいるそうだ。
千石荘病院の誰に聞いたのだったか「長期入院をしていると、治ってもどこへ帰ればいいのか、わからなくなる」という言葉が、心に突き刺さったままだ。それはご家庭の事情といった個人レベルの問題だったのか、結核という病気によるものかは、今となっては定かではないが。
番組を聞く間、千石荘病院の窓から見えた、猫たちがごろ寝している光景が目に浮かんで、仕方なかった。
私が祖父の見舞いに行くと「遠いところよく来たね」と言ってくれるほかの患者さんは、猫を可愛がっていた。自分も大変なときに、他の人や動物に、愛情を注げることを、すごいと思った。
外島保養院は、室戸台風で壊滅状態となり、同地に再建することは叶わず、岡山県長島に再建されることになった。
千石荘病院は平成15年に「国立病院 大阪医療センター」に統合された。
そうか、どちらも、もうないのか・・・。さびしくなったのは本当だ。
今もこんなにはっきり目に浮かぶのだ。「よく来たね」と言ってくれた患者さんたち。窓の向こうでくつろいでいた猫たち。そして「結核ということは、誰にも言ってはならない」と、あまりにもきつい言い方で、私たちに命令した祖母の顔。
これから、もっとハンセン病のこと、結核のことが正しく知られるようになればいいと思う。「適切な感染予防」と「過剰に恐れない正しい対処法」が広く知られることで、病気への偏見がなくなっていけばいいと思う。そして今までに不当な差別を受けてきた人々の存在から、私たちは様々なことを学ばなければならない、とも思うのだ。
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