耳の手術について、術前不安のある方のお話を聞いてあげて欲しい、と言われていた。その人は結局「手術をしない」という結論を出された。
その結論を聞かされた瞬間「あぁ、これは、私がよくなかったんだ」「私が嫌われたんだな」と思った。私が個人的に嫌われるのはいいが、せっかく患者さんのために様々な準備と配慮をしていた先生の努力を、私はぶち壊してしまったのだろうと思うと、腰が抜けたようになって、自室の片隅に座り込んでしまった。
何ヶ月も、何年も悩まれている患者さんの気持ちを、医療のプロでもなんでもない私が、数日間、お話ししただけで、一気に解決できるはずなんかない。「私が解決してあげるよ!!」なんて思うことは、自分への過信であり、思い上がりでもあろう。
「手術をしない」という選択そのものも、私の意見だけが100パーセントの重みがあるはずはない。それまでの主治医の先生、執刀医の先生、そして家族や親戚、他の患者さんの意見などがあって、その末席に私の言葉があったにすぎないだろう。そんな私が過剰に反省すること自体も、やはり思い上がりであるかもしれないが、今後のためにも反省すべき点を考えたいと思う。
私の反省すべき点は、その人に「100パーセントの安心がない限り、前へ進まない」「少しでも不安があるなら、全部が嫌になる」というお考えを、なんとか違う方向へと進んで欲しいと、焦ったことだろうと思う。
そして「無限にその人を受け止めることは不可能である」という自覚をもち、枠組みを設定してのやり取りをすることが大事だった。不安というのは「不安を解消するための行動」をすると、一時的には解消する。しかしまた不安はわいてくる。ここから不安 → 解消 → 不安 → 解消 → の無限ループが始まる。こうなると、どこかで他人が受け止めきれなくなるときが来る。
結果的には本人の「不安を解消したい」という思いを、どこかで裏切ることになる。だからこそ、あらかじめ「これ以上はできない」という枠組みを設定したほうがいい、ということ。これは、たとえば境界性パーソナリティ障害の方の治療でも「限界設定」をして、治療に取り掛かるほうがいい、という研究が進んでいるそうだ。
お医者さんは、こういう思いを散々されているのだろうと思うと、本当に大変な仕事だと思う。
今回のことは、手術を受けないって結論された以上は、もう私のできることはない。できれば、こういう形ではなく、直接「手術はしない」っていう言葉を聞きたかったけれど、その人がそれで苦しくなるなら、私との関わりをもったことも、忘れてくれてかまわない。「お前のせいで、手術を受ける機会を逃したじゃないか」と、今はうらんでくれてもかまわない。
ただどこかで、何らかの方法で、良くなって欲しいと私は願っているし、担当されたお医者さんも同じだと思う。
そして、耳の手術のことだけではなく、人生全般において、不安 → 解消 → 不安 → 解消 → の無限ループがいかに不毛なものか、ということに気づいてもらえるなら、嬉しい。100パーセントの安心を求めようとすれば、必ず不安が生まれるし、その解消のために力をつくしても、また次の不安が生まれるだけ。それに気づいてもらえるなら、私は嫌われても、うらまれても、かまわない。
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