さて、祖母は泌尿器科病棟に転科をすることになりました。
お医者さんからは「たとえ短期間であっても、家に帰らせてやることはできないか?」というお話もありました。ただ私の正直な気持ちを言えば「以前の祖母と今の祖母は違う。以前の祖母だったら、帰ってきてもらえるとなれえば、喜んで受け入れただろう。だけど、今の祖母は嫌だ。暴言を吐いたり、食事中に食器や吸飲みを叩き落したり、私の仕事をろくでもないと言ったりする祖母は嫌だ」というものでした。
それでも、祖母の余命は数ヶ月。数ヶ月さえ私が我慢できるのであれば、祖母に帰ってきてもらったほうが、良いのでは・・・?
両親の意見もあって、結局祖母は一度も帰宅することなく、8月23日に直接、泌尿器科病棟へと転科しました。癌による疼痛の治療のため、モルヒネを投与されるようになって、ますます訳のわからないことを言うようになった祖母を見て、「もしも祖母を帰宅させていたら、私は祖母を憎むようになっていたかもしれない」と思いました。
2008年8月29日、この日が生きた祖母に私が会った、最後の日となりました。
この日、私自身が外科への通院予定のある日で、親戚に祖母のことを頼んで、私は外科へ行きました。外科のM先生に事情をお話しすると「おばあちゃんが、おなか痛いって言ってから、受診するまでだいぶ時間が経ってるようやな。それでよく助かったなぁ。放置してたら腹膜炎で亡くなってるで。腕のえぇ先生やったんやな」とおっしゃったのを憶えています。そしてM先生はおっしゃいました。
「おばあちゃんの事情は分かったけど、自分の体調はどうなん? いけるんか? おばあちゃん、大変なときなんは分かるけど・・・」
先にも書いたとおり、メニエール病を重症化させてしまう人には、「自分のことは後回しにして、他人のために尽くしてしまう」というところがあります。今思えばM先生のこの言葉は、そうした行動様式への気付きを促してくださっていたのだと思います。
公立病院でM先生の診察を終えて、ガスターとサイトテックを大量に頂き、今後は無理をしないと約束をして、直接、祖母の入院先へと向かいました。親戚はよく面倒を見てくれていたのですが、人工肛門のバッグを変えることを親戚に頼むのは、祖母も気が引けたようでした。頼まなかったために、中身がもれて、看護師さんに交換をしてもらったようでした。そのような事態に付き添えなかった私に対し、祖母は相当興奮していました。
泌尿器科病棟はとても静かでした。ただ、この病院は、増築工事を行っており、つねに「ぎゅぃーーーん」という音が響いていました。この音は、外科病棟でも泌尿器科病棟でも、いつも聞こえており、私にとっては「耳鳴りを消す」という役割を、この音が果たしてしまったのです。
祖母が他界し静かな家で一人、過ごす時間が増えてから、「この音は耳鳴りでは」と気づいたのです。
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