2008年11月15日、喪中ハガキを印刷する作業をしていました。数日前からいくつかのデザインを両親に示し、文章を書き上げ、この日は印刷作業をしていました。13時ごろから、徐々に体調が悪くなり始め、吐き気やめまいを覚えていたようです。メニエール病の症状とは違って、不安感が強く息も速く浅くなっていました。
この日を境に、冷や汗をかいて吐き気がする、という日が徐々に増えています。
このころ、不正出血があまりにも続くからと、婦人科でルナベル配合錠を処方されるようになっていました。出血が止まった日は11月30日だけで、後は毎日、32日間にわたって不正出血があった記録があります(あまり記憶には残っていないのですが)。
ルナベル配合錠は健康保険の適用もありますし、色々な低用量ピルを飲んだ中では私に合うと思える低用量ピルでしたので、服用しているという安心感がありました。
しかし残念ながら、事態は悪化してしまいます。
2008年11月後半から12月にかけてははほとんど、「生ける屍」という言葉がぴったりの過ごし方をしていました。人間は二つのことを同時に考えることはできません。メニエール病より大変なことがあれば、まず、その「大変なこと」に対処するものです。
●身体の症状としては
・朝起きられない。何時間でも眠ってしまう。
・食事はロクに取れない。食べなくてもおなかが空かない。
・お医者さんに「口が渇いて舌に歯型が残っている」といわれる
・急性胃腸炎にかかる頻度が高くなる
●精神的な症状としては
・ろくでもない仕事といわれたことが、頭からはなれない
・切られた仕事のことばかり考えてしまう
・死にたいというより、水が蒸発するかのように消えてしまいたい
このような状態では、メニエール病のことを考えるどころでは、ないのです。
そして、母の言葉が耳に残って離れませんでした。
「祖母の介護をしてくれるようには頼んだけれど、それは『最低限の介護』を頼んだだけであって、『熱心にやってほしい』とは頼んでいない。『熱心に』介護をしたのは、ふゆうの勝手なのだから、それで体調を崩そうとも、失業しようとも、知らない」
12月19日、外科のM先生に
「この言葉を忘れられなくて、苦しいんだ」と話しています。
M先生は腹部の診察をしながら「それを言った人を、許してあげられるといいねんけど」と言葉をかけてくださいました。
「許す」という言葉を意識したのは、このときが初めでした。
「許す」というのは、相手のためでもあるけれど、それ以上に「自分のため」に大切なこと。
それに気づくのは、数ヶ月後のこととなります。
今となっては、母の言葉も『一人でさせて悪かったなぁ』と思っていたことが、ふゆうが病気になるという思わぬ形で、現実として突きつけられ、右往左往してしまった結果の、とっさの言葉だったのだろうと、分かります。
しかし、それに気づくことは、当時の私はできませんでした。
私は時々「キレる」ようになっていました。「キレる」といっても、さすがに暴力を振るうわけにはいきませんので、例えば突然、家事をやめてしまうとか、両親が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。
さらに「何か不満があるのなら、いってほしい」と両親が譲歩してくれようとしたときには、私は言うてはならないことを言いました。
「仕事と耳と卵巣を元に戻して」
こう言ったら、両親はもう何も言えなくなってしまいます。わかりながら、そう言ったのです。
「そうだよ、勝手に介護したんだから、そして自分でメニエール病を再発させたんだから、自分で卵巣の機能を止めてしまったんだから、もう放っておいてくれ」
自分の精神状態は荒れるのを通り越し、やがて無気力になっていきました。食事をろくに取っていないのに、体が浮腫んで体重は増加しました。
体のむくみは、メニエール病を悪化させます。内リンパ水腫は内耳のむくみですので、体全体がむくんでいるときには、当然ながら内耳のむくみも悪化するのです。
それでも何とか、自分の心身の状態を向上させようと、12月24日に精神科の先生に「抗うつ剤を出してほしい」とお願いしています。しかし先生の返事は「気持ちは分かるが、今はおばあちゃんがいなくなったことで、動揺しているのだから、そういう気持ちを抗うつ剤で抑えるべきではない。大丈夫ですから」でした。
12月には、良いこともありました。それは私が送ったクリスマスカードを、お医者さんたちが喜んでくださったことです。外科のM先生は、12月19日の診察のときに「ほら、ここに飾ってるで!!」と、診察室の机の上に飾って見せてくださったものでした。また、内リンパ嚢開放術の執刀医の先生からも、お礼のメールを頂きました。他の先生からも「ありがとう」と言われて、喜んでもらえてよかったと心から思いました。
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