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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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体が抗議し始める

2009年3月8日、父方祖母の容態が悪いという連絡が入ります。

そして3月14日朝、父方祖母は天国へと旅立ちました。

通夜や葬儀の間に、喘息になってしまったら困るので、すぐに喘息の先生に気管支拡張剤をいただきに行きました。そして、仕事は急いで片付け、取引先への連絡も済ませてから、斎場へ向かいました。先の母方祖母のときの教訓から、今度は取引先にご迷惑とならないようにと、常に考えていました。

ただ斎場について親族控え室に入ろうとしたとき、私は大きく体のバランスを崩します。従姉妹が慌てて駆け寄ってくれますが「大丈夫、ごめん」と言っただけで、その出来事はそのまま忘れました。

その出来事を思い出したのは、それから4時間ほど経ったときのことです。通夜ぶるまいの席で「聴こえが悪いかも・・・」と気づいたのです。しかしこのときは、誰にも言わないでおこうと決めました。大事な葬儀の席で、そんな話をして家族や親戚、そして亡き祖母に迷惑をかけるべきではないと、そう思ったのです。

3月19日、葬儀の終わった翌々日から不正出血が起こり始めます。基礎体温表の波形を見ると、どうやら無排卵のままのようです。あぁ、せっかく良い方向に向かっていると、お医者さんに喜んでもらえたのに・・・。

でもT先生は落ち着いていました。このくらいなら、ホルモン剤を使って止血するようなものではないので、次の周期も自力で排卵が起こせるかどうかを観察しましょう、と励ましてくださいます。

3月29日、少なくとも3年ほどはおさまっていたはずの乳腺症が、いきなり再発します。乳腺症自体は良性の疾患ですが、乳汁(母乳)が溢れてしまっていることに気づかないままでいると、下着が汚れたり、(私の場合は)皮膚炎になったり、湯船を汚してしまったりします。

4月3日、外科でS先生に診察していただくことが決まっています。S先生に初めて会ったのは、乳腺症にかかったことがきっかけでした。

このたび、いきなり乳腺症が再発したことに驚きながらも「そんなにS先生を待ち兼ねていたのかな」と考えます。

不正出血、メニエール病の症状、そして乳腺症の再発というこの流れを見ると、もしかしたら「体が悲鳴とまでは言わないが、無茶を繰り返していた私への抗議の声を上げている」という状態だったのかもしれません。

4月7日、耳鼻科での聴力検査を受けます。

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自律神経の薬とメニエール症候群

2009年2月23日、婦人科のT先生に「自律神経の薬を飲みたいです」と申し出ました。

「どうしたん、いきなり」
「布団から起きられへんようになって。で、内科医院と精神科医院で『自律神経の薬を出せば、改善する可能性はある。あるけれども、婦人科の薬(ルナベル配合錠)を飲んでいる人に、どういう影響があるのか、私には分からない』といわれて」
「あぁ、なるほど。まず、自律神経系の薬を同時に飲んでも、矛盾はありませんよ」
「あ、そうなんですか」
「そしてまた、ホルモンのバランスを、人工的に調整しているのだから、体調に影響が出ることもありますね」
「そうですか」
「でも、全部婦人科の影響かって言ったら、そういうこともないと思うけど」

T先生が選んでくださったのは、カルナクリンという薬でした。ルナベル配合錠をやめて、ホルモンバランスを自然な状態に戻してみて、カルナクリンを服用しながら経過を見る、という方法を示してくださいました。

「カルナクリンは、メニエール症候群にも使うことがありますよ。耳も良くなったらえぇのになぁ」
「ありがとうございます」

結果的にはこのカルナクリンが効いたのか、体調は良い方向に向かいました。

3月5日、再び婦人科のT先生の前に立ったときには、T先生は「驚いた」とおっしゃいました。

「ものすごいすごい良くなってるよな、前に比べて。前来たときは、どうしようかと思うほどやったからな」
「はい、めっちゃ楽です」
「前と全然ちゃうもんなぁ。びっくりするくらい、今の方がいいわ」
「それ、内科の先生も言ってはって、前来たときは、どうしようと思ったって」
「カルナクリンを出したんは、結果的には僕やけど、内科の先生の自律神経っていう言葉がなかったら、どうしようもなかったからなぁ。さすが、内科の先生は、よく診てはるわ。前も言ったけど、カルナクリンは、メニエール症候群にも使うことがありますよ。耳も良くなったらえぇのになぁ」
「ありがとうございます」

予定通り、しばらくカルナクリンを続けながら、自力で排卵を起こすことができるかどうか、排卵があった場合のPMSや月経困難症の程度はどうか、といったことを観察することになります。

「もし、次のときまた、死にそうになっとったら、ごめん」
「死にそうになること自体はいいねんけど、ふゆうさんの場合は、死にそうになっても、病院へは来るやろ?」
「うん」
「それやったら安心や」

こんな冗談も出るくらいの余裕が、生まれていました。

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変化の始まりと焦り

2009年2月6日、外科のM先生から「転勤する」と告げられました。「でも、良かったやん。後任はS先生やで」と。そう、「私が腸穿孔の写真を見せたせいで、ふゆうのおばあちゃんが悪くなったんか?」と気にしていたSさんが、M先生の後任として赴任されることになったのです。

「S先生は、僕の後そのまま引き継いで、外来担当されると思うから、一番初めに入れとこう」
「なんてことを!!」
朝の9時なんかに入れるんじゃない・・・。どんなに早く起きなあかんの・・・。

「まぁ、ふゆうさんのサマリーは書かんでも、S先生がよくご存知やと思うから」
「はい」
「そう言っといて」

「M先生、元気でね」
「うん、じゃあ(笑)」

そして、これがM先生の最後の診察になりました。

M先生に、祖母の人工肛門のこと、バッグの交換のこと、聞いてもらってずいぶん楽になったことを思い出したら、まぶたが熱くなりました。結果的にはM先生に「がんばれよ」と、疲れていた気持ちを癒してもらった2日後に、祖母は天国へと旅立ったのでした。

2月17日、意を決して家族に訴えることにしました。「家事を二日間だけ、休ませて欲しい」と。

その前に「掃除機をかけながらごみを拾ったら、立てなくなった」ということがありました。立とうとしても足に力が入らず、かといって「立てない」と焦るわけでもない。そんな自分が少し怖くもありました。

内科医院の先生にその話をしてみると「よくわからないなぁ・・・。自律神経の問題かなぁ・・・。食べられなくなったら点滴するけど・・・」とおっしゃいました。

それでともかく、家族に話してみました。

「すみません、どうにもならない事態になってきたので、2日間だけ家事を休ませてほしいんですけど・・・」

家族の衝撃度合いというのは、まぁすごいものでしたが、それでもともかく「一週間、他の家族でやってみる」という話になりました。その上で「今後は、ふゆう一人の負担にならない方法を考えようと思う」とも。そして、実際この一週間というものは、本当に楽をさしてもらいました。

さて、うつ状態というのは、本当にひどいときは、何も考えられないものです。しかし、少し元気になってくると「考える」というよりは「焦り」という気持ちが出てきます。

「こうして楽をさせてもらっているのに、私の体調が良くならないのは、いわゆる『怠け』なのではないか?」

冷静に考えてみると、単に休養が足らないだけなのですが、少しでも元気になってくると焦り始める。この心理は、真面目で几帳面なメニエール病患者の方には、よく分かっていただけることと思います。私もたった1日休んだだけで、2日目には焦りを感じるようになりました。

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怒りの焦点がずれていく

2009年1月10日夜に、めまいを感じてイソバイドを服用したというメモがあります。この日のことは、はっきり言って記憶にありません。

記憶にあるのは翌日、1月11日のことです。朝起きたら、体調がとんでもないことになっていました。回転性めまい、喘息、腹痛、吐き気、不正出血と、ありとあらゆる症状が一気に襲ってきたのです。イソバイド、ボルタレンSR、ナウゼリン、デパスと、家にあるだけの薬を飲んでしまいそうな勢いでした。

そしてはっきりと難聴になっていることは、感じました。家族の声が、音としては聞こえるのですが、何を言っているのか分からない、という状態が続いたものでした。

1月13日に内科医院を受診。「喉が腫れているんで、風邪の薬を飲んで、喘息を悪化させないようにしよう。それと無理をせずにゆっくり休んで、風邪を治しましょう。風邪を引いたり、メニエール病の症状が出たりするってことは、体のどこかに無理が来てるってことやから、まずは休んで」と先生はおっしゃいました。

それから再び喘息手帳への記録は途切れています。体調の悪化により、記入する気力がなかったのでしょう。


1月21日、Sさんに会うことができました。Sさんに「メニエール病のこと」「内リンパ嚢開放術のこと、執刀医の先生のこと」「友人から絶縁されたこと」を相談している様子が記録されています。

1月22日、再びルナベル配合錠を飲み始めました。しかしこのとき、普段以上に強い副作用(だるい、不正出血など)に戸惑っている様子が、一時的に記録された後に、記録は途切れがちになります。

この時期のうつ状態は、ものすごいひどいものでした。
体は動かない、食事は取れない、何時間も眠り続けるかと思えばまったく眠らない日もある、など、ひどい状態が続きました。

そして相変わらず、両親と弟とはうまくいきませんでした。家事をしない日があったり、両親や弟が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。

両親の気持ちが変化し始めていることは、わかっていました。「一人で介護をさせて悪かった」と思っていることは十分、分かっていました。

だからこそ私の口から「今になってそれを言うなら、介護を代わって欲しかった」という言葉が出ることを、両親が恐れていることを、私は分かっていました。

「代わって欲しいと頼んだのに、何もしなかったじゃないか」
「私の仕事をろくでもないと思ってるから、一人で介護をさせたんだ」
「どうせみんな、祖母と同じじゃないか」
「どうせみんな、私のことをろくでもない人間だと思っているんだ」

これらの言葉を言ったら、両親や弟の心を痛めてしまう。悪かったと思っているところを、さらに攻撃してしまう。顔を合わせたら、言わなくてもいいことを、言ってしまう。

だから私は「会わない」ことで「言わない」で済まそうとしたのです。

そして、矛盾するようですが、もう一つの思いが私の中にはありました。

「介護を丸投げしたこと」を私は怒ってはいるけれども、それと「メニエール病のことは別」だと思うようになったのです。
しかしどうやら、両親や弟は「一人で介護させた結果として、メニエール病が再発してしまった」ことを、どう受け止めていいか分からない状態になっている、問題を混同しているということに、私は気づいていたからです。

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キレるようになる

2008年11月15日、喪中ハガキを印刷する作業をしていました。数日前からいくつかのデザインを両親に示し、文章を書き上げ、この日は印刷作業をしていました。13時ごろから、徐々に体調が悪くなり始め、吐き気やめまいを覚えていたようです。メニエール病の症状とは違って、不安感が強く息も速く浅くなっていました。

この日を境に、冷や汗をかいて吐き気がする、という日が徐々に増えています。

このころ、不正出血があまりにも続くからと、婦人科でルナベル配合錠を処方されるようになっていました。出血が止まった日は11月30日だけで、後は毎日、32日間にわたって不正出血があった記録があります(あまり記憶には残っていないのですが)。

ルナベル配合錠は健康保険の適用もありますし、色々な低用量ピルを飲んだ中では私に合うと思える低用量ピルでしたので、服用しているという安心感がありました。

しかし残念ながら、事態は悪化してしまいます。

2008年11月後半から12月にかけてははほとんど、「生ける屍」という言葉がぴったりの過ごし方をしていました。人間は二つのことを同時に考えることはできません。メニエール病より大変なことがあれば、まず、その「大変なこと」に対処するものです。

●身体の症状としては
・朝起きられない。何時間でも眠ってしまう。
・食事はロクに取れない。食べなくてもおなかが空かない。
・お医者さんに「口が渇いて舌に歯型が残っている」といわれる
・急性胃腸炎にかかる頻度が高くなる

●精神的な症状としては
・ろくでもない仕事といわれたことが、頭からはなれない
・切られた仕事のことばかり考えてしまう
・死にたいというより、水が蒸発するかのように消えてしまいたい

このような状態では、メニエール病のことを考えるどころでは、ないのです。

そして、母の言葉が耳に残って離れませんでした。
「祖母の介護をしてくれるようには頼んだけれど、それは『最低限の介護』を頼んだだけであって、『熱心にやってほしい』とは頼んでいない。『熱心に』介護をしたのは、ふゆうの勝手なのだから、それで体調を崩そうとも、失業しようとも、知らない」

12月19日、外科のM先生に
「この言葉を忘れられなくて、苦しいんだ」と話しています。
M先生は腹部の診察をしながら「それを言った人を、許してあげられるといいねんけど」と言葉をかけてくださいました。

「許す」という言葉を意識したのは、このときが初めでした。
「許す」というのは、相手のためでもあるけれど、それ以上に「自分のため」に大切なこと。

それに気づくのは、数ヶ月後のこととなります。

今となっては、母の言葉も『一人でさせて悪かったなぁ』と思っていたことが、ふゆうが病気になるという思わぬ形で、現実として突きつけられ、右往左往してしまった結果の、とっさの言葉だったのだろうと、分かります。
しかし、それに気づくことは、当時の私はできませんでした。

私は時々「キレる」ようになっていました。「キレる」といっても、さすがに暴力を振るうわけにはいきませんので、例えば突然、家事をやめてしまうとか、両親が家にいる間は自室から一歩も出ないとか、両親の作ったご飯は食べずに、スナック菓子を買って食べるとか。

さらに「何か不満があるのなら、いってほしい」と両親が譲歩してくれようとしたときには、私は言うてはならないことを言いました。

「仕事と耳と卵巣を元に戻して」

こう言ったら、両親はもう何も言えなくなってしまいます。わかりながら、そう言ったのです。

「そうだよ、勝手に介護したんだから、そして自分でメニエール病を再発させたんだから、自分で卵巣の機能を止めてしまったんだから、もう放っておいてくれ」


自分の精神状態は荒れるのを通り越し、やがて無気力になっていきました。食事をろくに取っていないのに、体が浮腫んで体重は増加しました。

体のむくみは、メニエール病を悪化させます。内リンパ水腫は内耳のむくみですので、体全体がむくんでいるときには、当然ながら内耳のむくみも悪化するのです。

それでも何とか、自分の心身の状態を向上させようと、12月24日に精神科の先生に「抗うつ剤を出してほしい」とお願いしています。しかし先生の返事は「気持ちは分かるが、今はおばあちゃんがいなくなったことで、動揺しているのだから、そういう気持ちを抗うつ剤で抑えるべきではない。大丈夫ですから」でした。

12月には、良いこともありました。それは私が送ったクリスマスカードを、お医者さんたちが喜んでくださったことです。外科のM先生は、12月19日の診察のときに「ほら、ここに飾ってるで!!」と、診察室の机の上に飾って見せてくださったものでした。また、内リンパ嚢開放術の執刀医の先生からも、お礼のメールを頂きました。他の先生からも「ありがとう」と言われて、喜んでもらえてよかったと心から思いました。

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