忍者ブログ

普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

失った友情

2008年10月16日から、喘息手帳と基礎体温表への記録が再び始まっています。しかしその内容は投げ遣り、いい加減、鎮痛剤の使用状況もまるで分からないような書き方です。

おそらくは不正出血が始まってしまったために、とりあえずは記録を再開したものの、意欲的に書くということはなかったのです。その証拠に、2,3日ほど続いて、不正出血が止まると、記録内容も投げ遣り、いい加減、飛ばし飛ばしになっています。

実はこのとき、私には気になっていることがありました。相手方のプライバシー保護のため、日付をぼかして書きます。

私は介護中であったために、ある方の結婚式への出席ができませんでした。本当はその人の結婚式に、出席したい気持ちは強かったのです。ただ、父方の祖母、母方の祖母、二人ともがいつどうなるか分からない状態では、直前になってキャンセルする可能性も高く、迷った末に出席を辞退しました。

お祝いは祖母の介護の合間に、時間を見つけて選び、贈らせていただきました。

祖母が亡くなったこと、そして私が体調を崩していることは、結婚式後のいつのタイミングでお伝えすれば、相手方のお祝い気分を壊さなくて済むかと悩みました。

ちなみに、メニエール病を重症化させてしまう患者には「他人の目を気にする」という性格の傾向があります。このことは、ちょうど良い程度に気にする分には、人間関係を円滑にしてくれる、すばらしい特質となります。

しかし過剰に気にするようになると、患者本人にとっても苦しいし、周りにとっても「気を使わせていることが分かって苦しい」という状態になります。特に冠婚葬祭のことで気を使ったり、使われたり、あるいは失礼なことがあったりすると、お互いに一生の思い出となって残ってしまいますので、うまくいく方法があればいいのにと、今も思います。

さて、こうした悩みの中に、ある方からの救いのメッセージが届きます。
「そうした悩み事というのは、すぐに解決はできないだろうし、多くの人が悩む事態だと思う。ストレスがなくゆったりとした生活を送るように、というのがメニエール病患者へのアドバイスとして言われているが、非現実的なアドバイスをしても、どうしようもない場合もある。そういう場合に、メニエール病を悪化させないためには次のことを守ろう。
 ●水分を良くとり、運動をして汗をかくことを、心がけよう。
 ●そうすることで、体の実質的ストレスを減らすことができ、内耳への影響を抑えられる。
 ●またイソバイドを飲むなら、適量を見つけるということも大事」

私はこの日から、買い物に行くときなどに、少し早足で歩くことを心がけたり、生姜湯を飲んだりという努力を、少しずつですが、始めるようになります。

11月のある日、私のもとへ一つの小包が届きます。

小包に入っていた、結婚式へ出られなかった私へのメッセージ。それは「この人は、今後の付き合いはやめたいと思っているんだな」と、思えるものでした。

友達だからこそ「介護で忙しい」ということは、わかってくれると思った。
でも、その相手にしてみれば、友達だからこそ「介護を差し置いてでも結婚式に出てほしい」という思いがあったのかもしれない。

この連絡をほぼ最後として、残念ながらこの友達との絆は、失われてしまったのだと思います。

拍手[0回]

PR

運命の日と空白の一週間

2008年10月7日、この日は半年に一度の聴力検査の日でした。通い慣れた病院ですので、特に不安も緊張もなく「帰りにはガストによろうかな」と考える余裕もありました。

しかしこの日、耳鼻科の主治医Y先生は、意外な事を言いました。

「どうしたん? 調子悪かったかな?」
「え? 何も悪くは・・・」
「ほら、聴力ね、低音部が聴こえなくなってる。メニエール病の治療を再スタートしましょう」

言葉が出ないほどの驚きでした。

「めまい、耳鳴り、その他、何もなかったとは考えづらいんですけど、いかがですか?」
「えぇ・・・? あ!!」
「あ?」

「あの、急に今言われたのでびっくりしてるんですけど、パニック障害とか、そういう問題だと思って、デパスとかを飲んでやりすごしたことはあります。あと、吐き気とか、ふらふらする感じ(浮動感)というのは、パニック障害だった場合と見分けがつかないので・・・」
「まぁ、分かる気はします。ストレスがかかったら、メニエール病が悪化することもあるし、まったく精神科の問題と、この難聴、メニエール病の症状が別のものかどうかって、私も問われたら分からないですね」
「そうですよね」
「ただ、聴力は落ちているという現実があるので、メニエール病の症状が出てたことは、多分間違いないでしょう」

このときの気持ちは「?( ̄□ ̄)やられたぜ!!」という感じでした。

そう、一気にすべての事象が思い起こされ「あれはメニエール病再発の兆候、というか『再発の兆候』の予兆だったのか」と気付かされたのです。

「で、イソバイドを出します」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「今日からすぐ飲めとはいいませんが、もしも悪くなったら服薬して、また受診を必ずしてくださいね」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」
「次の予約は半年後にしますが、それは厳密に守らなくてもいいので、悪くなったら受診してください」
「はい (心の声::?( ̄□ ̄)やられたぜ!!)」

ただ一つ、現在の主治医の先生にお聞きしたことがあります。

「あの、私が鈍感だから?」
「え?」
「精神科の症状と思い込んでて、分からなくて」
「あぁ、鈍感いうのとは、ちょっと違うと思いますけどね」

この質問に、どういう意味があったのか、私自身もわからないのです。ただあまりにも急の出来事で、本当に驚き、うろたえて発した質問だといえます。

肝心のこの日から一週間ほど、私の基礎体温表、喘息手帳には、まったく記入がなくなっています。日付すら書いていません。完全なる空白の状態です。よほどのショックで、何も書きたくなくなったのでしょう。

拍手[0回]

アルコールへの依存傾向

2008年9月28日、一通のメールが届きました。「めまいの待合室」という本が出版されるという内容のメールでした。

めまいの待合室の画像 めまいの待合室 北原 糺

ちなみに、ポリッツァー学会のページに、この先生の写真が掲載されています。こちらのほうが本物に近いように思います。書籍は単色刷りの写真なので、限界もあるのかもしれませんね。
http://www.politzersociety.org/Previous/Cleveland.htm
写真に写っているとおり、K先生は本当に気さくで優しい先生です。私はこんなすばらしい先生に、内リンパ嚢開放術を施術していただいたのだ。これからも、自分なりの情報発信を続けて、K先生や他の患者さんのお役に立てるよう、私の力など微々たるものだけれど、それでも頑張ろうという思いを新たにしました。

こんなすばらしい先生に、コーヒーにかつお節を入れると・・・、とか話していた自分が恥ずかしい・・・。


10月1日、久しぶりに会ったSさんは、意外なことを言いました。

「酒、飲みすぎてるやろ」

図星、とはいえないまでも、痛いところを突かれたのは事実でした。私はこのとき、日本酒2杯とビール1本は必ず飲んでいたように思います。Sさんは言いました。

「私が心配しているのは、量やないねん。今の量そのものは、すぐに大問題になるっていう事はないと思う。ただ、段々酒量が増えていたところや、酒がなければ料理用の酒を無理やり開けてでも飲む、というふうになってきたところが、問題やったと思う」
「やっぱり、そうですよね」
「あのな、アル中(アルコール依存症)の人ってな、ヘアトニックでも飲むっていう場合がある」
「えぇえ!!」
「まだ、料理用の酒をあけて、というくらいなら、可愛いもんやと思えるけど、やっぱりそこで『ないから我慢するか』っていうのが普通やんか」
「はい」
「我慢できんからって、料理用の酒を空けて飲む、っていうのは、ちょっとやっぱりな」
「はい」
「まぁ、コンビニに行ってこよ、と思って服でも着替えてるうちに冷静になれるかもしれへんから、まぁ、今後は、我慢するかコンビニに行くか。料理酒はあけない!!」
「はい!!」

そういう約束をしました。

メニエール病を重症化させてしまう患者には、真面目で几帳面、細かいことを気にするという性格の傾向があると言われています。これは悪く言えば、頑固で融通が利かず、とことんまでやり抜かなければ気がすまない、ということの裏返しでもあります。

いったん酒を飲み始めると、真面目に几帳面に、酒量が増えていってしまう。そのままでは、下手をするとアルコール依存症に陥ります。

ちなみに、アルコール依存症をはじめ、様々な依存症になる人というのも、真面目で向上心が強く「こうあるべし」と自分を縛ってしまうタイプが多いといわれています。

とはいえ、救いの道もあります。それは、依存症に陥る手前で他人から「それはおかしい!!」と指摘されることです。

「昨日、初めて酒に接した人が、今日すぐに依存症になる」ということは、ありません。初めて酒を飲んでから、依存症に陥るまでのどこかで、誰かに「おかしい」と指摘される機会があれば、我に返ることができるかもしれないのです。

しかし、いったん「アルコールしか見えない」状態になって、家族や友達との絆が断ち切られてしまったら、誰も「おかしい」と指摘してくれる人はいなくなります。

私にもこのとき、そうした危険性が大いにあったと思いますが、Sさんに指摘されたことは、本当に幸いでした。

拍手[0回]

独りになるということは

2008年9月17日、精神科の先生から「独りになる」ことについて、注意を促されました。

「脅かすわけではありませんが、少し注意してほしいことがあります。家に独りで過ごす時間が長くなるわけですし、女性が一軒家で生活をするということは、結構こわいものです。そのために、一時的に不安が強くなったり、不眠になったり、パニック障害が悪化したりする可能性もあります。そういうのは、必ず良くなりますから、少し注意して生活してくださいね。無理はしないように」

今となっては、このお話をもっと真剣に、受け止めていればよかったと、反省することが多いです。

実際に、吐き気がする、不安が強い、という書き込みが、基礎体温表や喘息手帳に増えています。ナウゼリン、デパスなどを服用しながら、なんとか乗り切っていたようです。

そして、独りで過ごすということは、会話というものをしないので「難聴になっても、気づかない」ということでもありました。

10月1日に、Sさんという人のところへ、会いに行く約束をしていました。Sさんは外科のお医者さんです。

実は、祖母が入院する3日ほど前、Sさんに会って話していました。Sさんがお医者さんのためのカラー写真がふんだんに掲載された本を出して、内臓の写真などを見せてくれました。その中に「穿孔した腸の写真」があったようです。

Sさんは後に「おいおい、私があんな写真を見せてしまったから、おばあちゃんが悪くなったんやないんやろな?」と、ちょっと気にしていたとおっしゃいました。

久しぶりに会えるSさんに、「時期的に自分の誕生日の直前なので、誕生日おめでとうって書いてもらおう」と勝手に決めて、楽しみにしていました。

Sさんと会う約束をしてから、実際に会うまでの期間、私の記録は頓服薬の服薬内容しか書かれていません。これは「体調が悪い」ということを、意識するのが怖かったのです。会う約束を、体調のせいで守れなくなったら、すごくすごくすごく残念だから、なるべく頭から排除しようとしたのだろうと思います。ただ、鎮痛剤を何度も重ねて飲んでしまうといったことは、あってはならないことなので、「何時何分、ボルタレンSR」とかのメモだけは書いてあります。

拍手[0回]

誰かへ、何かへの依存とメニエール病

2008年8月30日、ノアルテン-Dを服用しているにも関わらず、予定外の時期に消退出血という現象が起こります。9月4日まで、基礎体温の変化を観察しながら、ホルモン剤の使用について考える予定でしたが、消退出血が起こってしまっては、どうしようもありません。

2008年8月31日、母方の祖母は永眠いたしました。

9月1日に通夜、9月2日に葬儀を行いました。

9月3日、喘息の先生と精神科の先生に、普段どおりの診察と、あと祖母のことで心を砕いてくださったお礼を申し上げました。祖母の入院の間に「デパスを出して」「ドグマチールを出して」とわがままを申し上げました。「看病が終わるまで」という約束で聞き入れてくださった先生方に、心よりのお礼を申し上げました。

9月4日、婦人科の先生に会ったとき、真っ先に「ごめんな、先生」と言ったことが、今でも思い出されます。

「どうしたん? ノアルテン-Dの使い方、間違えた?」
「祖母が亡くなりました」
「あっ・・・それは・・・しょうがないわ。基礎体温表つけてるどころやないやろ」
「はい」
「よう頑張ったな。ほんまによう頑張ったよ」

抗うつ剤「ドグマチール」は、わりと安心な薬ではあるのですが、乳汁分泌を促してしまったり、生理不順になったりするという副作用があります。婦人科や外科(乳腺)で治療を受けている私は、「できるだけ早く、ドグマチールを止める」という約束を交わした上で、この薬を使用していました。実際にやめたのは9月11日と記録があります。

両親が、忌引きをとって家にいた間は、そうでもなかったのですが、本当に家に一人取り残されると、たくさんの戸惑うことが出てきました。

私は介護をすることで、祖母を支えていたつもりでした。自分のことは後回しにして、祖母のことを優先してきたつもりでした。

しかしそれは「介護するということへの依存」ではなかったのかと、今となっては思います。昨年の暮れ頃になって、自分の思いを書いた記事がありますので、もう一度ここにコピーしておきます。

自分を抑えて他人の欲求を優先させる。それが本当に「献身」と呼べる行為ならば、すばらしいことかもしれません。しかし、メニエール病を重症化させてしまう人のなかには「他人からの賞賛を期待する」という傾向があるということも、知られています。この記事を読み返すと、私は自分でも、そのことに気づいていたのだろうと、思います。


■介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?

祖母の生前中、いつも「祖母がこの料理を食べられるか」という基準で、献立をきめていた。新しい家電製品を買うとき「祖母が使い方を憶えられるか」という基準で、選んでいた。「祖母ができないことは、自分がやる」という基準で、行動をきめていた。

突然「今日からは、何を作ってもいいよ」といわれると、何を作っていいか分からなくなった。「今日からは、あなたが使いやすい家電を買っていいよ」といわれると、選べなくなった。「今日からは、全部自分の裁量でやっていいよ」と言われても、どうやって手を抜いていいのか、どこまで完璧にやったらいいのか、分からなくなった。

ご飯は、祖母と食べることが当たり前だったので、両親とは残念ながら何年も、一緒に食べたことがなかった。だから突然、両親と自分が食卓を囲むことになっても、どうしたらいいのか、まったく分からなかった。どういう顔をして、何を食べて、どのくらいのペースで食べ終わったらいいのか、まったく分からなかった。

「祖母の介護・介助をする」といえば、聞こえはいい。

ただ、自分の場合には介護という言葉の陰に隠れ、祖母の存在に依存していただけではないのか、と、家事の「程度」に戸惑うたびに思う。

祖母は残念ながら、新しい家電製品を買っても、使い方を憶えられないことが多かった。その分、家族に頼りきりになって生活せざるを得なかった。家族のなかでも、仕事で疲れていて、なんとなくどうしてもきつい言葉で対応する者よりは、普段から一緒にいて、言葉のペース配分が分かっている者に聞くほうが、安心できたという面があるだろう。しかし、あまりにも、祖母から同じことを何度も聞かれるたびに、不安になったこともある。

私がいなかったら、祖母はどうなるのだろう?

祖母への思いをたてに、私自身の判断や欲求を後回しにして、祖母の希望を優先させたこともある。このことは、私自身が祖母という存在に依存していたことの表れではないだろうか。

「まずは祖母のやりたいことを優先させる」

これは一見、美しい行為だけれど、裏を返せば、私が自分の人生を自分で判断しない、という生き方でもある。

今後、親の介護なども、自分にかかってくる。そのときに、介護に依存するのではない生き方が、自分にできるだろうか?

拍手[0回]

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[01/18 シャネル スーパーコピー キーケース]
[10/10 バッグ・財布・時計スーパーコピーブランドコピー]
[07/09 美辞ん堂ふゆう]
[07/07 衣斐 美由紀]
[05/04 t.soota]

プロフィール

HN:
美辞ん堂ふゆう
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R