2008年8月30日、ノアルテン-Dを服用しているにも関わらず、予定外の時期に消退出血という現象が起こります。9月4日まで、基礎体温の変化を観察しながら、ホルモン剤の使用について考える予定でしたが、消退出血が起こってしまっては、どうしようもありません。
2008年8月31日、母方の祖母は永眠いたしました。
9月1日に通夜、9月2日に葬儀を行いました。
9月3日、喘息の先生と精神科の先生に、普段どおりの診察と、あと祖母のことで心を砕いてくださったお礼を申し上げました。祖母の入院の間に「デパスを出して」「ドグマチールを出して」とわがままを申し上げました。「看病が終わるまで」という約束で聞き入れてくださった先生方に、心よりのお礼を申し上げました。
9月4日、婦人科の先生に会ったとき、真っ先に「ごめんな、先生」と言ったことが、今でも思い出されます。
「どうしたん? ノアルテン-Dの使い方、間違えた?」
「祖母が亡くなりました」
「あっ・・・それは・・・しょうがないわ。基礎体温表つけてるどころやないやろ」
「はい」
「よう頑張ったな。ほんまによう頑張ったよ」
抗うつ剤「ドグマチール」は、わりと安心な薬ではあるのですが、乳汁分泌を促してしまったり、生理不順になったりするという副作用があります。婦人科や外科(乳腺)で治療を受けている私は、「できるだけ早く、ドグマチールを止める」という約束を交わした上で、この薬を使用していました。実際にやめたのは9月11日と記録があります。
両親が、忌引きをとって家にいた間は、そうでもなかったのですが、本当に家に一人取り残されると、たくさんの戸惑うことが出てきました。
私は介護をすることで、祖母を支えていたつもりでした。自分のことは後回しにして、祖母のことを優先してきたつもりでした。
しかしそれは「介護するということへの依存」ではなかったのかと、今となっては思います。昨年の暮れ頃になって、自分の思いを書いた記事がありますので、もう一度ここにコピーしておきます。
自分を抑えて他人の欲求を優先させる。それが本当に「献身」と呼べる行為ならば、すばらしいことかもしれません。しかし、メニエール病を重症化させてしまう人のなかには「他人からの賞賛を期待する」という傾向があるということも、知られています。この記事を読み返すと、私は自分でも、そのことに気づいていたのだろうと、思います。
■介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?
祖母の生前中、いつも「祖母がこの料理を食べられるか」という基準で、献立をきめていた。新しい家電製品を買うとき「祖母が使い方を憶えられるか」という基準で、選んでいた。「祖母ができないことは、自分がやる」という基準で、行動をきめていた。
突然「今日からは、何を作ってもいいよ」といわれると、何を作っていいか分からなくなった。「今日からは、あなたが使いやすい家電を買っていいよ」といわれると、選べなくなった。「今日からは、全部自分の裁量でやっていいよ」と言われても、どうやって手を抜いていいのか、どこまで完璧にやったらいいのか、分からなくなった。
ご飯は、祖母と食べることが当たり前だったので、両親とは残念ながら何年も、一緒に食べたことがなかった。だから突然、両親と自分が食卓を囲むことになっても、どうしたらいいのか、まったく分からなかった。どういう顔をして、何を食べて、どのくらいのペースで食べ終わったらいいのか、まったく分からなかった。
「祖母の介護・介助をする」といえば、聞こえはいい。
ただ、自分の場合には介護という言葉の陰に隠れ、祖母の存在に依存していただけではないのか、と、家事の「程度」に戸惑うたびに思う。
祖母は残念ながら、新しい家電製品を買っても、使い方を憶えられないことが多かった。その分、家族に頼りきりになって生活せざるを得なかった。家族のなかでも、仕事で疲れていて、なんとなくどうしてもきつい言葉で対応する者よりは、普段から一緒にいて、言葉のペース配分が分かっている者に聞くほうが、安心できたという面があるだろう。しかし、あまりにも、祖母から同じことを何度も聞かれるたびに、不安になったこともある。
私がいなかったら、祖母はどうなるのだろう?
祖母への思いをたてに、私自身の判断や欲求を後回しにして、祖母の希望を優先させたこともある。このことは、私自身が祖母という存在に依存していたことの表れではないだろうか。
「まずは祖母のやりたいことを優先させる」
これは一見、美しい行為だけれど、裏を返せば、私が自分の人生を自分で判断しない、という生き方でもある。
今後、親の介護なども、自分にかかってくる。そのときに、介護に依存するのではない生き方が、自分にできるだろうか?
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