喘息の先生のところへ行った。今日の問題は、急性胃腸炎になってしまったということ。「無理せんと、しっかり休んどきや」といわれた。
喘息の先生は、私を18年くらい診てくれている。アトピー性皮膚炎がメインの受診理由だったときもあったし、低血圧や不定愁訴、メニエール病の応急治療、うつ状態で精神科の先生を紹介してもらう、などなど、様々な歴史があったことを、思い出す。そして、ついには成人喘息などというものになってしまった。
私もうんざりするときがあるが、多分、先生も間違いなく、うんざりしたこともあるだろう。あるに違いない。
「先生が一方的に私を心配する」
「私は一方的に先生を頼る、あまえる、病気になる」
こういう関係がずーっと、18年続いているのだ。
友人関係でも、なんでもそうだが「今はしんどそうだけれど、こいつは少し助けてやれば、頑張れる。きっといつか、いい方向に進むことができる」ということを思える相手でないと、関係は長続きしない。たとえ「心配」から始まった相手であっても、「いつか立ち直れる」と信じられる相手でないと、手を貸したくなくなってくる。
自分は、信じてもらえているだろうか?
今回、急性胃腸炎になる前のことだが、Sさんという私がとても信頼している人に対して、同じことを思った。
「今、とてもSさんに会いたいのだけれど、今の自分では心配をかけてしまうと思う」
それが、正直な思い。Sさんとは、そう頻繁に会えない分、「よい状態」で会いたいのだ。今まで散々心配をかけておいて、いまさらかっこつける事はない、と思われるかもしれない。しかし、Sさんとは「心配」で縛りあう時期は、もう終わったと思っている。
喘息の先生には、正直に症状を話さないと治療にならないので、話すけれども、それも徐々に変わってきた。
20歳前後だっただろうか。色々な病気だと、次々に病名をつけられて、びびりながらも、どこかで「私は絶対にこの苦難の道を乗り越えてみせる」という自信があった。「差別や偏見に打ち勝ってみせる」という自信だけはあった。残念ながら、大好きだった祖母も、私の病気を「受け入れがたいことと」と考えていたようで、その点では色々と考えさせられ、衝突し、泣いたことも多かった。
でも、20歳前後のお気楽な学生が、差別や偏見を本当の意味で「経験していた」とは言いがたい。本当の意味での肉体的苦痛を、まだまだ分かってなかったともいえる。それなのに「乗り越えてみせる」という妙な自信だけはあった。
経験を積むにつれて、自信は少しずつ崩れていき、肉体的には疲弊していき、パワーがうまく発揮できなくなっていった。
それでも、私が疲れ切っているとき・・・。「何かあったんか?」と声をかけてくれる先生、検査の予定をわざと入れて、リカバリールームでじっくり話を聞いてくれる先生、診察順番を後回しにして、他の患者さんに迷惑をかけないようにしてから、「今日はゆっくり話そう」と言ってくれる先生・・・、色んな先生と出会った。
そうして、肉体の治療をするだけではなく、空っぽになった心を、充電してもらった。
「こいつには充電のし甲斐がある」
そう思ってもらえる存在でありたかった。なかなか、うまく行かないけれど、18年付き合ってもらった喘息の先生や、言葉はきついけど「ばーん」とぶつかってきてくれるSさんや、そのほかの先生方に感謝しつつ、今は急性胃腸炎を治して、そしてまた立ち上がりたいと思う。
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