祖母の生前中、いつも「祖母がこの料理を食べられるか」という基準で、献立をきめていた。新しい家電製品を買うとき「祖母が使い方を憶えられるか」という基準で、選んでいた。「祖母ができないことは、自分がやる」という基準で、行動をきめていた。
突然「今日からは、何を作ってもいいよ」といわれると、何を作っていいか分からなくなった。「今日からは、あなたが使いやすい家電を買っていいよ」といわれると、選べなくなった。「今日からは、全部自分の裁量でやっていいよ」と言われても、どうやって手を抜いていいのか、どこまで完璧にやったらいいのか、分からなくなった。
ご飯は、祖母と食べることが当たり前だったので、両親とは残念ながら何年も、一緒に食べたことがなかった。だから突然、両親と自分が食卓を囲むことになっても、どうしたらいいのか、まったく分からなかった。どういう顔をして、何を食べて、どのくらいのペースで食べ終わったらいいのか、まったく分からなかった。
「祖母の介護・介助をする」といえば、聞こえはいい。
ただ、自分の場合には介護という言葉の陰に隠れ、祖母の存在に依存していただけではないのか、と、家事の「程度」に戸惑うたびに思う。
祖母は残念ながら、新しい家電製品を買っても、使い方を憶えられないことが多かった。その分、家族に頼りきりになって生活せざるを得なかった。家族のなかでも、仕事で疲れていて、なんとなくどうしてもきつい言葉で対応する者よりは、普段から一緒にいて、言葉のペース配分が分かっている者に聞くほうが、安心できたという面があるだろう。しかし、あまりにも、祖母から同じことを何度も聞かれるたびに、不安になったこともある。
私がいなかったら、祖母はどうなるのだろう?
祖母への思いをたてに、私自身の判断や欲求を後回しにして、祖母の希望を優先させたこともある。このことは、私自身が祖母という存在に依存していたことの表れではないだろうか。
「まずは祖母のやりたいことを優先させる」
これは一見、美しい行為だけれど、裏を返せば、私が自分の人生を自分で判断しない、という生き方でもある。
今後、親の介護なども、自分にかかってくる。そのときに、介護に依存するのではない生き方が、自分にできるだろうか?
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