私はこの世に生を受けたとき、おそらく聴力にはほとんど問題がなかった。しかし、私は生きていく途中で「聴力に問題が生じていく」という運命を、選んでいたのかもしれない。
それはなぜなのだろう?
聴力がなくなっていくことで、何を学ぼうと思ったのだろう?
逆に言えば、今まで「聞こえていた」ということは、私にとってどういう学びだったのだろう?
最近、どうやら聴力変動が激しくなっているらしくて、医院での呼び出しなどが聞こえないときがある。単に私がぼーっとしているだけかもしれないが。だから、医院の先生・スタッフの方にお願いをして、「聞こえなかった場合に、ちょっとだけ怒りを鎮めてほしい」とお願いをした。
聞こえなくなったとしても、今は「そんなこともあるさ」と思っている。でも以前、同じ「難聴」という現象に対して「そんな現実は認めたくない」と思ったことがある。
私は工事担任者という資格を持っていて、電気通信設備(電話回線とか、今ならケーブルテレビジョンなども)の配線の仕事がしたかったことがある。
そんな真っ只中で「これから難聴が進むだろう」と言われたら、どう思うか? 耳の聞こえない技術者というものに、需要はあるのだろうか、と不安になったり、他の進路に変更をすることを怖く思ったり。なかなか大変だったことを思い出す。
今は内耳の状態を良く保つために、大量に水分をとって、有酸素運動をして、発汗・排尿の量を増やすことで「パゾプレッシン」の分泌を抑えるように、と指導されている。電車に乗ったときに、最寄り駅まで行かずに、一駅手前で降りて歩くとか、そういうことを心がけている。
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