家族と「確実に」会話をするためには、メモ用紙とメールを使っての会話をする。家族は手話がわからないし、私も急な呼びかけには対処できないこともあるので。
ところが、先ほどメモ用紙「にも」メール「にも」偶然気づかなかった家族が、感情的に怒鳴りつけてきた。こちらはボルタレンSRとブスコパンと、ついでにナウゼリンと半夏瀉心湯とも濃密な関係を築きながら、額に脂汗を浮かべている最中なのに、いったい何なのかと腹が立ってやり返してしまうから、ますます事態は悪化する。
こういう時は、「事態が理解できた瞬間の気まずさ」というのは、お互いになんとも表現しづらいものだと感じる。
こういうことがあるたびに「祖母の言い残した『ろくでもない』って言葉が、本当になっただけなんだから、いいんじゃないか」と思える。あれほど私をののしって、天国へ行った祖母の言葉を、私は証明するためだけに、今後の人生を生きるしかないのだろうと。
本当は、自分を「『ろくでもない』人間なんかじゃない」って、思いたい。
祖母の言葉ばかりが頭に響いて、現実に「(お世辞であっても)お前はいい娘や」と言ってくれる、様々な人の言葉が耳に入らない。この状態が続くのは、せっかく言ってくれた人に対して(お世辞であっても)、失礼なことだとも思う。
今、自分がやってはいけないことは「心の耳を自分で塞いでしまう」ということだと思っている。「私ってなんて可哀想・・・」などと、今の事態に酔ってはいけないと。
きっと神様は、気まぐれに私の(肉体的な)耳を塞いだのではなく、「この耳をふゆうに与えることが、一番の修行になるから」と、私にこの耳を与えてくださったのだろう。だから、この耳の能力をカバーできるくらいに、心の耳を澄まさなければならないのだろう。
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