婦人科のT先生のところへ行った。朝から「体調が悪いな」とは思っていたのだけれど、婦人科の待合で思いがけず、精神科の症状が出てしまった。私は精神科の症状と共に、胃けいれんや嘔吐もでてしまうことが多く、今日もそのようになった。顔面蒼白で脂汗を浮かべている状態で、診察室によばれた。すぐに反応できなくてごめんなさい、T先生。。。
「吐き気がだいぶあるようやけど、どうした?」
「多分、身体の問題ではなくて、精神科の問題で・・・」
「あぁ、なんか一緒に出てしまうって言ってたっけ?」
「はい、私は一緒に出てしまいます」
「まぁ、自己診断して適当に対処しておいて(笑)」
「はい(笑)」
※※※これは冗談です。このようなことを素人判断で行ってはいけません※※※
この後しばらく、今後の治療について話をした。
次の周期もホルモン調整を行わないで、排卵があるかどうかを様子を見ること。
今現在は、当帰芍薬散よりカルナクリンが合うようなので、そちらへ変えていくこと。
不正出血があまりにも増えるようだったら、ノアルテン-Dを使うこと。
・・・こうした話をした。
「さて。僕が思うに・・・」
「思うに・・・」
「ふゆうさんは、人の生死に関することに、ここのところ多く接してきたかと思うけれど、それらにダイレクトに反応して、身体の症状が出てきているね」
「はい」
「それは、弱いっていう事かもしれないけど」
「そうですね、弱いと思います」
「僕が思うに、その根底にはすごく優しい気持ちがあると思うねん」
「そう、かな。そんなことないよ。。。」
「いや、あるよ。否定したところで、身体的に色々な症状が出てしまってることは、誰が見ても明らかやんか」
「そうですね」
「そう。だからその優しいというところまで、否定しなくていいと思う」
「そうかな」
私は自分の弱いところに気づいていた。だからこそ、自分を色んなもので縛り上げて、強くあろうとした。
例えば勇気、決断、プロ意識などがとても必要な行為を、自分に強いるというところがあった。そしてまた、いつも「冷静であれ」「公平であれ」「分析的であれ」と自分に強いてしまうところがあった。
でも、これらを追求しようとしすぎて、自分の感情というものを、否定・拒絶するようになった面も確かにあった。嬉しいとか楽しいという感情はともかく、悲しい、苦しい、寂しいといったことを思う自分に「そんなことでは、冷静になれない、公平・分析的にはなれない」と叱咤してしまうところがあった。
もしも優しいということが、私の長所であるなら、できればそれを否定せずに生きたい。優しいということが、損をする、傷つけられるということにつながることだって、あるのは知っている。
本当に強いということは、傷つくかもしれなくても、利用されるかもしれなくても、優しいという自分を受け入れて、そのままその優しさを外へ出せるようになることだろう。身体的な病気になる、といった、曲がった方法で表に出さなくても良くなることが、強くなるということだ。
強くなりたいからといって、優しさを否定することはない。いつか、優しくて弱いことから、優しくて強いことへと、変わっていければいいのだから。焦ることはない。
今日は、T先生と話して、そんなことを思えた。T先生、ありがとう。
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