「孫が介護に関わるということの是非」について、様々な意見がある。基本的には「是」とする人が多いのだが、そのなかでも「孫が副介護者である場合に是」という意見が多いようだ。
実は私は、下記サイトに随分お世話になっていて、分からないことの相談に乗ってもらったことがある。
介護110番
http://www.kaigo110.co.jp/特に、介護が終わってから、色々な問題(精神面、自分が体を壊してしまった、相続、親戚関係など)をどう処理すればいいのかは、自分が相談しないまでも、他の方の意見を参考にさせてもらった。
このサイトでは「孫が主介護者」というケースの方が、結構いたので、自分は違和感を持っていなかった。
だけど、隣近所といったレベルや、友人間では少ないのだ、ということに気づいたときには、どうしても埋めようのない溝というのができてしまってからだった。たとえば、友人の誘いを断ってしまったときに「祖母の介護がある、なんていう理由は信じられない。来たくないならはっきり言え」と言われてしまうとか。もっと最悪なのは「介護が終わったら、自分が体調を崩すなんて、都合が良すぎる」と言われてしまうとか。
昔々、まだ自分が高校生だったときに、祖父が「結核の疑いが濃厚」と言われたことがあって、病院に入院をしていた。結核の場合には、患者家族は保健所に呼び出されて、胸部レントゲンを受けたりする。このときから、「両親は仕事があるので、祖父母に何かあった場合には、介護は自分がするもの」という思いがあった。
Sさん(専門家としてではなく友達としてのSさん)と話したとき、次のように言われた。
「私の知っている範囲、仕事で会うご家族とかでも、基本的には親の介護は『子』が多いなぁ。こっちもキーパーソンは『子』と思って話をする」
「現実的な主介護者が『孫』となるなら、たとえば施設や病院にも説明がいると思う。大事な話があるとき『孫を子の代理と考えて、大事な話も孫にいってくれて構わない』という意思表示をして欲しいなぁ。でないと『孫』が目の前にいるのに、わざわざ『子』に電話して、大事な話をしなければならない、とかそういうおかしな事態になる」
「ただ、孫が最も長時間、介護にあたるかどうか、おばあちゃんを愛しているかどうか、ということと、様々なことの決定権まで、孫に負わせるかどうかということは、別やろう?」
日常的なこと(夕ご飯何するの?とか、お風呂に何時に入るの?というレベル)は、孫が決めて問題ない。というかそのために、介護をしているのだから、孫が決めなければならない。でも、たとえばケアマネさんと話し合わなくちゃ、身体障害者の手帳をもらわなくちゃ、といったレベルになると、孫が手続きのできることって本当に少なくて、結局は無力だと思わされる。
「孫が介護に関わるということの是非」ということも、結局はここをどう考えるかということが、大事なのではないか?
おじいちゃん、おばあちゃんは、病床から文句をいい、あれをしてこれをして、と命令する。その子(自分の親)は、大事なことを全部決めてしまう。孫はひたすら日常的な介護にあたって、労力を提供する。
これをどう考えるかっていうことが、孫の「納得」の度合いを左右する。
親は重大な決定を全部する変わりに、孫と違って大きな責任(心理的にも)を負い、祖父母のための経済的負担をする。祖父母は、もしかしたら「子」に対してなら表明してしまうかもしれない不満を、孫相手には表明せずに我慢する。こういう面もあるかもしれないから、子が介護をすることが絶対良くて、孫はやめておいたほうがいい、とまでは言えないかもしれない。
ただ、やっぱり孫の生活へのダメージというものも、考えなければならない。私も失ったものがある。それは先に書いたような「友達の理解が得られなくて溝ができてしまった」ということもあったし、「健康を損なってしまう」ということ、「仕事をどうするか」ということ、などもある。さらに非常に残念なことだが、「親(祖父母の子)との関係」が、介護中にできたしこりを残してしまい、スムーズに行かなくなる、という場合もある。
そして、私の場合、最も大変な荷物として心に残っているのは「私はこんなにも欠けている存在なのだ」という思い。多分、もっと私が年齢がいって、いい意味での図太さとかを身につけていたら、人の言葉をいちいちまともに受け止めてしまうことなど、なくなっていただろう。でも、自分はそれができない。
祖母の言葉、親戚の言葉、親の言葉、友達の言葉、全部が「お前は欠点だらけの存在だ」と言っているように感じる。
「(自営業なので)どうせ家にいるんだから、介護に長時間使っても構わない」
「ふゆうさんの将来がご心配ですね」
「家の掃除が行き届いていない。味噌汁が不味い」
「祖母の介護があるから、誘いに応じられないなんて、信じられない」
お前は、こんなにも欠けている存在だ。
お前は、誰一人の要望にも応えられない、つまらない存在だ。
お前は、お前は、お前は・・・。
孫には、こんな言葉を受け止められる図太さが、まだまだ備わっていないということも、孫の大変さを増してしまうのではないだろうか。
介護が終わった後(正確にはもう一人、要介護者がいるのだけれど)に、「こんなにも欠けている私を愛して欲しい」っていう思いが、強くなった。それはたとえば、
「良く頑張ったって言って欲しい」
「体の調子が良くなるよっていって欲しい」
「ちょっとだけでいいから、家事を休ませて欲しい」
「もう一人で泣かなくていいよっていって欲しい」
そういう色々な形で表に出てきたけれど、結局のところ「私は欠けている」という思いが強くなりすぎて「私の欠けている部分に、誰かの愛情を注いでもらって、欠けた部分を埋めていきたい」と思ってしまっているのだろうと、最近思う。
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