この前、家事を一週間ほど休ませてもらうことになった。でも、今まで慣れていない家族に、いきなり全面的に一週間も任せてしまったために、結局は続かなかった。それでも、3日ほどは休ませてもらえたので、ありがたいと思う。
さて、このことの話し合いの後で「いきなり、100%もう無理だ、となる前に、助けてくれと言ってほしい。どんな風に助けて欲しいか話して欲しい」と言われた。例えば、掃除だけは誰かに任せるとか、洗濯だけは誰かに任せる、といった部分的に労力を負担してもらう、という方法もある。あるいは、近所づきあい、親戚づきあいの部分がしんどいなら、その面を家族に任せるとか、そういう「質」の面で任せる範囲を決めるという方法もある。
今回は、あまりにも「いきなり」のことだったので、私もどんな風に助けて欲しいか、ということが分からない。たとえば「夕食を作って欲しい」と頼んだ場合に、「それをやった結果、どうなるのか」が想像できない、というところがあった。何を減らしてもらったら、どのくらい、自分が楽になれるのか、が分からなかった。これは、頼まれる側も、頼む側も「慣れていない」ということなんだろうと思う。
私は「どんな風に助けて欲しいか、話して」という言葉に、既視感覚がある。私のよくないところなんだけれど、「どんな風に」というのが言えない、という面がある。
例えば「いたずら電話がめちゃくちゃかかってくる」という苦境に立たされたとする。「助けて」というのにも、いくつかの種類があって、「いたずら電話がかかってこないようにできればいい(着信拒否など)」「いたずらの主を突き止めたい」「相手と話し合いたい」など、「どうなりたいのか」という点を明らかにした方が、まわりも相談に応じやすいだろうし、自分の目指す方向も定まる。
あまりにも疲れすぎると、「どんな風に」という部分が、飛んでしまう。ともかく「助けてくれ」と泣き叫ぶだけになってしまう。「そこまでになる前、まだ冷静に『どんな風に』と言える時点で、話す」ということも、本当は大事なのだと思う。
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