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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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どんな風に助けて欲しいか、話して。

この前、家事を一週間ほど休ませてもらうことになった。でも、今まで慣れていない家族に、いきなり全面的に一週間も任せてしまったために、結局は続かなかった。それでも、3日ほどは休ませてもらえたので、ありがたいと思う。

さて、このことの話し合いの後で「いきなり、100%もう無理だ、となる前に、助けてくれと言ってほしい。どんな風に助けて欲しいか話して欲しい」と言われた。例えば、掃除だけは誰かに任せるとか、洗濯だけは誰かに任せる、といった部分的に労力を負担してもらう、という方法もある。あるいは、近所づきあい、親戚づきあいの部分がしんどいなら、その面を家族に任せるとか、そういう「質」の面で任せる範囲を決めるという方法もある。

今回は、あまりにも「いきなり」のことだったので、私もどんな風に助けて欲しいか、ということが分からない。たとえば「夕食を作って欲しい」と頼んだ場合に、「それをやった結果、どうなるのか」が想像できない、というところがあった。何を減らしてもらったら、どのくらい、自分が楽になれるのか、が分からなかった。これは、頼まれる側も、頼む側も「慣れていない」ということなんだろうと思う。

私は「どんな風に助けて欲しいか、話して」という言葉に、既視感覚がある。私のよくないところなんだけれど、「どんな風に」というのが言えない、という面がある。

例えば「いたずら電話がめちゃくちゃかかってくる」という苦境に立たされたとする。「助けて」というのにも、いくつかの種類があって、「いたずら電話がかかってこないようにできればいい(着信拒否など)」「いたずらの主を突き止めたい」「相手と話し合いたい」など、「どうなりたいのか」という点を明らかにした方が、まわりも相談に応じやすいだろうし、自分の目指す方向も定まる。

あまりにも疲れすぎると、「どんな風に」という部分が、飛んでしまう。ともかく「助けてくれ」と泣き叫ぶだけになってしまう。「そこまでになる前、まだ冷静に『どんな風に』と言える時点で、話す」ということも、本当は大事なのだと思う。

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こんなにも欠けている私を愛して欲しい

「孫が介護に関わるということの是非」について、様々な意見がある。基本的には「是」とする人が多いのだが、そのなかでも「孫が副介護者である場合に是」という意見が多いようだ。

実は私は、下記サイトに随分お世話になっていて、分からないことの相談に乗ってもらったことがある。

介護110番
http://www.kaigo110.co.jp/

特に、介護が終わってから、色々な問題(精神面、自分が体を壊してしまった、相続、親戚関係など)をどう処理すればいいのかは、自分が相談しないまでも、他の方の意見を参考にさせてもらった。

このサイトでは「孫が主介護者」というケースの方が、結構いたので、自分は違和感を持っていなかった。

だけど、隣近所といったレベルや、友人間では少ないのだ、ということに気づいたときには、どうしても埋めようのない溝というのができてしまってからだった。たとえば、友人の誘いを断ってしまったときに「祖母の介護がある、なんていう理由は信じられない。来たくないならはっきり言え」と言われてしまうとか。もっと最悪なのは「介護が終わったら、自分が体調を崩すなんて、都合が良すぎる」と言われてしまうとか。

昔々、まだ自分が高校生だったときに、祖父が「結核の疑いが濃厚」と言われたことがあって、病院に入院をしていた。結核の場合には、患者家族は保健所に呼び出されて、胸部レントゲンを受けたりする。このときから、「両親は仕事があるので、祖父母に何かあった場合には、介護は自分がするもの」という思いがあった。

Sさん(専門家としてではなく友達としてのSさん)と話したとき、次のように言われた。

「私の知っている範囲、仕事で会うご家族とかでも、基本的には親の介護は『子』が多いなぁ。こっちもキーパーソンは『子』と思って話をする」

「現実的な主介護者が『孫』となるなら、たとえば施設や病院にも説明がいると思う。大事な話があるとき『孫を子の代理と考えて、大事な話も孫にいってくれて構わない』という意思表示をして欲しいなぁ。でないと『孫』が目の前にいるのに、わざわざ『子』に電話して、大事な話をしなければならない、とかそういうおかしな事態になる」

「ただ、孫が最も長時間、介護にあたるかどうか、おばあちゃんを愛しているかどうか、ということと、様々なことの決定権まで、孫に負わせるかどうかということは、別やろう?」

日常的なこと(夕ご飯何するの?とか、お風呂に何時に入るの?というレベル)は、孫が決めて問題ない。というかそのために、介護をしているのだから、孫が決めなければならない。でも、たとえばケアマネさんと話し合わなくちゃ、身体障害者の手帳をもらわなくちゃ、といったレベルになると、孫が手続きのできることって本当に少なくて、結局は無力だと思わされる。

「孫が介護に関わるということの是非」ということも、結局はここをどう考えるかということが、大事なのではないか?

おじいちゃん、おばあちゃんは、病床から文句をいい、あれをしてこれをして、と命令する。その子(自分の親)は、大事なことを全部決めてしまう。孫はひたすら日常的な介護にあたって、労力を提供する。

これをどう考えるかっていうことが、孫の「納得」の度合いを左右する。

親は重大な決定を全部する変わりに、孫と違って大きな責任(心理的にも)を負い、祖父母のための経済的負担をする。祖父母は、もしかしたら「子」に対してなら表明してしまうかもしれない不満を、孫相手には表明せずに我慢する。こういう面もあるかもしれないから、子が介護をすることが絶対良くて、孫はやめておいたほうがいい、とまでは言えないかもしれない。

ただ、やっぱり孫の生活へのダメージというものも、考えなければならない。私も失ったものがある。それは先に書いたような「友達の理解が得られなくて溝ができてしまった」ということもあったし、「健康を損なってしまう」ということ、「仕事をどうするか」ということ、などもある。さらに非常に残念なことだが、「親(祖父母の子)との関係」が、介護中にできたしこりを残してしまい、スムーズに行かなくなる、という場合もある。

そして、私の場合、最も大変な荷物として心に残っているのは「私はこんなにも欠けている存在なのだ」という思い。多分、もっと私が年齢がいって、いい意味での図太さとかを身につけていたら、人の言葉をいちいちまともに受け止めてしまうことなど、なくなっていただろう。でも、自分はそれができない。

祖母の言葉、親戚の言葉、親の言葉、友達の言葉、全部が「お前は欠点だらけの存在だ」と言っているように感じる。
「(自営業なので)どうせ家にいるんだから、介護に長時間使っても構わない」
「ふゆうさんの将来がご心配ですね」
「家の掃除が行き届いていない。味噌汁が不味い」
「祖母の介護があるから、誘いに応じられないなんて、信じられない」

お前は、こんなにも欠けている存在だ。
お前は、誰一人の要望にも応えられない、つまらない存在だ。
お前は、お前は、お前は・・・。

孫には、こんな言葉を受け止められる図太さが、まだまだ備わっていないということも、孫の大変さを増してしまうのではないだろうか。

介護が終わった後(正確にはもう一人、要介護者がいるのだけれど)に、「こんなにも欠けている私を愛して欲しい」っていう思いが、強くなった。それはたとえば、
「良く頑張ったって言って欲しい」
「体の調子が良くなるよっていって欲しい」
「ちょっとだけでいいから、家事を休ませて欲しい」
「もう一人で泣かなくていいよっていって欲しい」
そういう色々な形で表に出てきたけれど、結局のところ「私は欠けている」という思いが強くなりすぎて「私の欠けている部分に、誰かの愛情を注いでもらって、欠けた部分を埋めていきたい」と思ってしまっているのだろうと、最近思う。

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「2日間だけ家事を休ませてください」と頼んだら、爆発的な騒ぎに・・・。

最近、とみに体調が悪く、夕食作りが思うようにできないので、早い時間から食事を作ったりして、カバーをしていた。昨日にはついに、掃除機をかけながらごみを拾ったら、立てなくなってしまった。

内科の先生には「よくわからないなぁ・・・。自律神経の問題かなぁ・・・。食べられなくなったら点滴するか」と言われた。

それで昨日、家族に頼んでみた。
「すみません、どうにもならない事態になってきたので、2日間だけ家事を休ませてほしいんですけど・・・」

おそらく、私がそのようなお願いをしたのは、一生で初めてのことなので、家族の受けた衝撃というのは大きかったようだ。何か夜遅くまで話し合っていた。私は自室で横になっていたので、何を話していたのか知らない。

そしてともかく「一週間、他の家族でやってみる」という話になったと伝えられた。その上で今後、どうやっていくか考えると。

ごめんね。早く立ち直れるように、私もがんばるね。

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昨日は13日の金曜日

昨日は13日の金曜日だったのに、私の周りでは誰も何も一言も言わなかった。

どうして? それはきっと、今日が2月14日だからだ。

そして来月も、13日の金曜日は何も言われないのだろう。それは翌日が3月14日だから。

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「あなたは大切な存在だ」と時には言ってもらえること

ひどく自信を喪失し、自分の一部が欠けたように感じ、何もこの手につかめないような気分でいたとき。

「あったものを失ったという体験も、大切なあなたの一部なんだよ」と言ってもらえた。「失って欠けた」のではなく、「失った、という経験」を新たにつんだのだと。

あなたは、変化していくだろう。あるときは、なかったものを得るかもしれない。あるときは、あったものを失うかもしれない。

それでも、あなたがずっと変わらないのは「大切な存在である」ということ。

この人と、長く長く絆を紡いでいけるのは、絶妙のタイミングでこういう大事なことを話してくれるからだと、思った。当たり前すぎて口に出すことが少ないけれど、それでも「あなたは大切な存在だ」と、時には言ってもらえることが、とても大事なことだと思った。

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