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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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「七番目の方角」から、何が溢れてくるか。

私は、ZIGGYの「7th direction」という歌を、「ゴールデンベスト」を購入したとき、初めて聴いた。そして、初めて「七番目の方角」についてのネイティブアメリカンの言い伝えについて知った。

人間をおつくりになったグレートスピリットは、人間にとって分かりやすい「東西南北、上下」という方角をおつくりになった。

しかし七番目の方角というのは、分かりにくくした。それは、もっともパワーにあふれ、もっとも偉大な知恵と強さにあふれている方角だからだ。

その方角とは「一人一人の心の中」「自分の中心」というものだ。

そういう言い伝えだった(正確でないかもしれません、ごめんなさい)。


私は、何かつらいことがあると「もうヤダ!!」って簡単に思うほうだ。
たとえば「誰かを愛していても(変な意味ではなく)、その相手から愛されてない」と感じるなら、「もうヤダ!!」って思う。
「筋肉量を増やそうとがんばってるのに、むしろ体重が落ちてきた」となると、「もうヤダ!!」ってなる。

それでも、実際には、少し休めばまた愛は溢れてくる。少し時間が経てば「また、たんぱく質をとってトレーニングをしよう」ってなる。

「もうヤダ!!」とはちょっと違うけど、このブログを書いているときには、いつも「これで満足」と思って投稿ボタンを押す。だけど、時間が経てばまた、書きたいことは溢れてくる。だから更新し続けているわけだし。

自分の中心から溢れてくるものは、不思議と尽きることがない。

自分の人生が終わるまで、自分の中心から何が溢れてくるか、見つめていきたいなと思う。

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家事をするときの手袋

家事をするとき「皮膚が荒れ性なのだから、手袋(ポリエチレンなどの使い捨てのもの)を使いなさい」といわれていた。実は、昔はしていたけど、最近まで長い間、していなかった。なぜかというと、料理をするときに包丁を使うと、スベってスベって、怖くて仕方がないから。

でも、ポリエチレンの手袋が安く売っていたので、試しに買ってみた。皮膚にぴったりフィットするタイプの手袋だ。すると、意外に快適に使えるようになってた。

一つ困るのは、突然、宅配便の人が来たときとかに、はずさずに出て行ってしまったりすること。わはははは。家庭的で良いですね。

それと、「この手袋をしていたら、ネイルカラーのはがれるスピードが違うだろうか?」と思った。

試しに両手の指にネイルカラーを塗ってみて観察したのだけど、これはあまり変わらないと思う。指先への水濡れとかは防げるけど、衝撃とかは防げるわけじゃないから、ネイルカラーははがれることもあるのだろう。ただ、引っかいてネイルカラー部分を傷つける、ということはないので、安心して料理とかができることは、確かだ。

それと、衛生面の観点から、もったいないけれども「使い捨て」ということは、確実に実行しておかなければいけないと感じた。

ドラッグストアで安く手袋が売られていたら、買っておこう。

今日の主題からそれるけど・・・。

私は指先を人前にさらすことの少ない生活をしているので、ネイルカラーとかアートに凝りだすと、めっちゃ凝ってしまう。

とはいっても、さすがに手指があまりに派手というのは抵抗があるので、足の指はめっちゃ派手な色を塗っている。足の指は、夏になれば人前に出すこともあるけど、それでも「手指が派手」よりは「足指が派手」のほうが、まだ許されそうに思う。今はまだ、靴下を履いている季節だけど、実は足指はめっちゃ派手だ。

「人に見せないから、派手にしても大丈夫」というのは、おかしな考え、究極の自己満足なのかも。。。

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大工さんに仕事の悩み相談

自宅が築35年程度となることもあって、屋根の補修の必要が生じた。

そのため、いつもお世話になっている工務店の大工さんが、今日見積りなどを持ってきてくださった。父が一瞬家をあけた瞬間にいらしたので、少しお話をした。

私は実は「特殊な職業ですね、といわれたことで、ただならぬショックを受けてしまった」ということで、悩んでいた。「何がそんなにショックなのか分からない」というくらいショックだった。相手に悪気が無かったことが、十分に分かっているので「なんとか自分で消化しなければ」とあせっていたのは事実だ。

大工さんと私は個人事業主という点では同じなので、共通する部分もあって、様々な話をした。大工さんは、「開業したときには、(大工さんの)親の事業を承継した形になるので、広告宣伝はそんなに必要なかった」といった話や、逆に言えば「あの親父の子どもだから、立派な家を建てるだろう」というプレッシャーもあったといった話をしてくださった。

大工さんに、直接その悩みをぶつけたんではないし、大工さんと話したからといって、私自身の悩みがどう解決した、というわけではないのだけど、なんだか少しだけ力を緩めることができたと思う。また同じように、ショックを受けるときが、来るのだろうと予想はしているけど・・・。

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強くなりたいからといって、優しさを否定することはない。

婦人科のT先生のところへ行った。朝から「体調が悪いな」とは思っていたのだけれど、婦人科の待合で思いがけず、精神科の症状が出てしまった。私は精神科の症状と共に、胃けいれんや嘔吐もでてしまうことが多く、今日もそのようになった。顔面蒼白で脂汗を浮かべている状態で、診察室によばれた。すぐに反応できなくてごめんなさい、T先生。。。

「吐き気がだいぶあるようやけど、どうした?」
「多分、身体の問題ではなくて、精神科の問題で・・・」
「あぁ、なんか一緒に出てしまうって言ってたっけ?」
「はい、私は一緒に出てしまいます」
「まぁ、自己診断して適当に対処しておいて(笑)」
「はい(笑)」
※※※これは冗談です。このようなことを素人判断で行ってはいけません※※※

この後しばらく、今後の治療について話をした。
次の周期もホルモン調整を行わないで、排卵があるかどうかを様子を見ること。
今現在は、当帰芍薬散よりカルナクリンが合うようなので、そちらへ変えていくこと。
不正出血があまりにも増えるようだったら、ノアルテン-Dを使うこと。
・・・こうした話をした。

「さて。僕が思うに・・・」
「思うに・・・」
「ふゆうさんは、人の生死に関することに、ここのところ多く接してきたかと思うけれど、それらにダイレクトに反応して、身体の症状が出てきているね」
「はい」
「それは、弱いっていう事かもしれないけど」
「そうですね、弱いと思います」
「僕が思うに、その根底にはすごく優しい気持ちがあると思うねん」
「そう、かな。そんなことないよ。。。」
「いや、あるよ。否定したところで、身体的に色々な症状が出てしまってることは、誰が見ても明らかやんか」
「そうですね」
「そう。だからその優しいというところまで、否定しなくていいと思う」
「そうかな」

私は自分の弱いところに気づいていた。だからこそ、自分を色んなもので縛り上げて、強くあろうとした。

例えば勇気、決断、プロ意識などがとても必要な行為を、自分に強いるというところがあった。そしてまた、いつも「冷静であれ」「公平であれ」「分析的であれ」と自分に強いてしまうところがあった。

でも、これらを追求しようとしすぎて、自分の感情というものを、否定・拒絶するようになった面も確かにあった。嬉しいとか楽しいという感情はともかく、悲しい、苦しい、寂しいといったことを思う自分に「そんなことでは、冷静になれない、公平・分析的にはなれない」と叱咤してしまうところがあった。

もしも優しいということが、私の長所であるなら、できればそれを否定せずに生きたい。優しいということが、損をする、傷つけられるということにつながることだって、あるのは知っている。

本当に強いということは、傷つくかもしれなくても、利用されるかもしれなくても、優しいという自分を受け入れて、そのままその優しさを外へ出せるようになることだろう。身体的な病気になる、といった、曲がった方法で表に出さなくても良くなることが、強くなるということだ。

強くなりたいからといって、優しさを否定することはない。いつか、優しくて弱いことから、優しくて強いことへと、変わっていければいいのだから。焦ることはない。

今日は、T先生と話して、そんなことを思えた。T先生、ありがとう。

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死に方を考える=生き方を考える

更新を楽しみにしているブログがある。「遺品整理屋は見た!!」という本になる前から、ずっと楽しみにしていた。

現実ブログ「現実にある出来事の紹介」
http://blog.goo.ne.jp/keepers_real

「ともだちの友達はともだちだ!」という記事の中で、次のような言葉があった。
http://blog.goo.ne.jp/keepers_real/e/75a4ca9974d26d72dcdddc6316c77a25
【引用始まり】 ---
親友の親友は親友にはなりにくいのです。
【引用終わり】 ---

あぁ、胸に響くな・・・。

確かに「親友の親友」というのは、「自分にとっても親友」とは限らない、ということを感じていた。

私は自分自身のエンディングノートを用意している。

なぜ用意しているかという、一番大きな理由は、取引先にかける迷惑を最小限にしたいということ。私が死亡してしまったり、意識不明といった状態になったら、取引先への連絡を遺族・家族に頼まなければならない。そうした場合に、遺族・家族が迅速に対応できるとういことが、取引先への迷惑を最小限に抑えることに、つながると思う。

そして次の理由が、連絡をして欲しい友人、知人を明らかにするということ。私は一度、友人関係を断って「生き直した」という経験がある。死に際まで「断った」という感情を引きずっているかどうかは不明だけれど、今のところ「万が一のことがあっても、連絡して欲しくない」という相手がいる。もしも家族が、年賀状用の住所録ソフトなどを探した場合には、その「連絡して欲しくない相手」というのが誰なのか、わからないままになる。だから逆に「この人には連絡して欲しい」ということを、書いている。

それと、資格試験の免許状などを返送して欲しいということも、書いている。入会している同業者団体に連絡をして欲しいとか。死亡した場合には、税務署に廃業届けを出して欲しいということも。銀行のこと、保険のこと、なども。

現代人だなと自分で思うのは、ホームページの運営・閉鎖についての希望、その方法、ブログの運営・閉鎖についての希望、その方法などを書いていること。

自分の希望する葬儀の形式とかは、まだ強く書いているわけじゃない。ただいわゆる「家族葬」に、とお願いするつもりではいる。

多分、ファイナンシャルプランナーなどの資格を持っている人の中には、「どうやって死ぬか、ということを考えるのは、どうやって生きるか、ということを考えることになるのです」という言葉を、講義・講演などのなかで、聞いたことがあるだろう。特に「ライフプランニングと資金計画」の分野の先生が、よく使う言葉だ。

私も、エンディングノートの用意のときや、さらに祖母の死や、知人の死に続けてあってしまったときに、「どうやって死ぬか考えることは、どうやって生きるかを考えること」という言葉に、深くうなずいたものだった。

私は、「死にたい」という言葉を、口に出したことがある。そのとき、Sさんという人に「他の何をやっても最終的には許すが、死んだらしばくし許さない」と言われた。少なくとも、Sさんにしばかれないように、生きたいと思う。

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