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普通の日はないんですか!?

「大きな波に流されるのでも、逆らうのでもなく、波に乗って進みなさい」と、教えてくれたのはあなたでしたね。

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「好き」という鍵で開ける扉

私はすごく好きな散歩道がある。わざわざ電車に乗って、その道を歩きに出かけるほどだ。その道を歩いているとき、日光がキラキラと輝いているように感じられる。家でも、他の外出先でも、同じお日様の光を浴びているはずなのに、なぜかその散歩道に差し掛かると、すごくキラキラと綺麗な光に感じられる。

近くに、天皇陵があって大きな公園がある。車の交通量は少ないほう。線路沿いなので電車が時々通過する。だからおおむね静かな道で、夜中にこの道を通るとしたら、少し怖いかもしれないとすら思う。

私はこの道が本当に好き。日光がキラキラと降ってくるこの道が大好き。

気分が塞いだとき、精神的に落ち込んでしまうとき、どうしても「にぎやかな音楽を聴いて、気を紛らわそう」と思ってしまう。それはそれで、一つの方法だし、気がまぎれるときもたくさんあって、いいと思う。でも、この散歩道はものすごく静か。静かなのに、気分が塞ぐということがなくて、歩いているうちに楽しい感じすらしてくる。キラキラの太陽と、たぶん土地の持つパワーみたいなものが、自分のエネルギーを充填してくれているのだと思う。散歩をしてからしばらくは、目を閉じればキラキラの太陽を思い出すことができる。

昔、天皇陵を建造するようなときには、土地のパワーがあるところに造ったものだった、ということを聞いたことがある。私にはそういうパワーを感じる直観力というのは、残念ながらないけれども、もしかしたら「好き」という感覚そのものが、そういうパワーを受け入れるための鍵になっているのかもしれない、と感じる。自分が閉ざしてしまった自分の心の扉を、「好き」という鍵で開けようとしているのかもしれない。

キラキラと太陽が降ってくる道で、いつもお世話になっている人たちのことを考える。すると「あの人も、この人も太陽のような温かい人だ」と感じる。キラキラの光の中で、今まであったつらいことを考える。すると「あの経験はきっと、これからの自分の人生を照らす太陽に変わってくれるだろう」と思える。

散歩道を歩いている時間は、せいぜい30分というところだけれど、長い人生という道の一部分が、こんな素敵な道だったことに感謝したいと思う。そうして何度も「好き」というキラキラした感覚をよみがえらせながら、人生の扉を開けて進んでいきたいと思う。

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恋の病に似ている

ある人に、クリスマスカードを送るかどうかを散々迷っていた。

それは、その人が私のことを「そういうキャラではない」と思っているだろうからだ。その人は、私を「髪を青く染めたり、投げ遣りな態度をしたり、享楽的な雰囲気を持っていたり・・・」というイメージがあるだろう。だから、誰かのためにクリスマスカードを用意して送る、というような人間とは、思われてないことだろうと思った。

それもあって(要するに恥ずかしいので)、送るかどうか散々迷いまくり、今日になってやっと「本当の私にはこういうところがあると、分かってもらえると嬉しい」と決断して、投函をした。

だがしかし「やっぱり変なやつと思われるかも・・・」とか思っているうちに、なんだか久しぶりに胃けいれんを起こしてしまい、ブスコパンを2錠のんで、のた打ち回っていた。

あぁ、なんだか恋の病に似ている。
「嫌われたらどうしよう?」「いい子だと思われたい」「振り向いて欲しい」・・・。こんな思いが胸にいっぱい詰まっている。

大の大人でも、こういう状態になる。もっと若い人が「あの人に恋をしているの」という状態だったら、もっと激しい症状(?)が出るんだろうな。

あぁ、今日の胃けいれんは恋の病に似ていたのだな。

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甘えたい

自分というものを「バカみたい」「いいように使われた間抜け」だと思ってしまう。粗大ゴミに出されている傷だらけの机みたい。

そんな私は「甘えたい病」にかかっていて、自分だけではとても立ち直れないから、猫になって誰かの膝に乗って甘えたい。

たくさん食べても飲んでも、愛は空っぽのまま。食べなくて飲まなかったら、惨めになる。

ちょっとだけ、愛して。

そんな期待したって、うまくいかなくて、また空っぽになるよって、寂しい心が警告してる。

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同じ「難聴」という現象に対して、別の思いを持ったことがある

私はこの世に生を受けたとき、おそらく聴力にはほとんど問題がなかった。しかし、私は生きていく途中で「聴力に問題が生じていく」という運命を、選んでいたのかもしれない。
それはなぜなのだろう?
聴力がなくなっていくことで、何を学ぼうと思ったのだろう?
逆に言えば、今まで「聞こえていた」ということは、私にとってどういう学びだったのだろう?

最近、どうやら聴力変動が激しくなっているらしくて、医院での呼び出しなどが聞こえないときがある。単に私がぼーっとしているだけかもしれないが。だから、医院の先生・スタッフの方にお願いをして、「聞こえなかった場合に、ちょっとだけ怒りを鎮めてほしい」とお願いをした。

聞こえなくなったとしても、今は「そんなこともあるさ」と思っている。でも以前、同じ「難聴」という現象に対して「そんな現実は認めたくない」と思ったことがある。

私は工事担任者という資格を持っていて、電気通信設備(電話回線とか、今ならケーブルテレビジョンなども)の配線の仕事がしたかったことがある。

そんな真っ只中で「これから難聴が進むだろう」と言われたら、どう思うか? 耳の聞こえない技術者というものに、需要はあるのだろうか、と不安になったり、他の進路に変更をすることを怖く思ったり。なかなか大変だったことを思い出す。

今は内耳の状態を良く保つために、大量に水分をとって、有酸素運動をして、発汗・排尿の量を増やすことで「パゾプレッシン」の分泌を抑えるように、と指導されている。電車に乗ったときに、最寄り駅まで行かずに、一駅手前で降りて歩くとか、そういうことを心がけている。

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介護に依存するのではない生き方が、できるだろうか?

祖母の生前中、いつも「祖母がこの料理を食べられるか」という基準で、献立をきめていた。新しい家電製品を買うとき「祖母が使い方を憶えられるか」という基準で、選んでいた。「祖母ができないことは、自分がやる」という基準で、行動をきめていた。

突然「今日からは、何を作ってもいいよ」といわれると、何を作っていいか分からなくなった。「今日からは、あなたが使いやすい家電を買っていいよ」といわれると、選べなくなった。「今日からは、全部自分の裁量でやっていいよ」と言われても、どうやって手を抜いていいのか、どこまで完璧にやったらいいのか、分からなくなった。

ご飯は、祖母と食べることが当たり前だったので、両親とは残念ながら何年も、一緒に食べたことがなかった。だから突然、両親と自分が食卓を囲むことになっても、どうしたらいいのか、まったく分からなかった。どういう顔をして、何を食べて、どのくらいのペースで食べ終わったらいいのか、まったく分からなかった。

「祖母の介護・介助をする」といえば、聞こえはいい。

ただ、自分の場合には介護という言葉の陰に隠れ、祖母の存在に依存していただけではないのか、と、家事の「程度」に戸惑うたびに思う。

祖母は残念ながら、新しい家電製品を買っても、使い方を憶えられないことが多かった。その分、家族に頼りきりになって生活せざるを得なかった。家族のなかでも、仕事で疲れていて、なんとなくどうしてもきつい言葉で対応する者よりは、普段から一緒にいて、言葉のペース配分が分かっている者に聞くほうが、安心できたという面があるだろう。しかし、あまりにも、祖母から同じことを何度も聞かれるたびに、不安になったこともある。

私がいなかったら、祖母はどうなるのだろう?

祖母への思いをたてに、私自身の判断や欲求を後回しにして、祖母の希望を優先させたこともある。このことは、私自身が祖母という存在に依存していたことの表れではないだろうか。

「まずは祖母のやりたいことを優先させる」

これは一見、美しい行為だけれど、裏を返せば、私が自分の人生を自分で判断しない、という生き方でもある。

今後、親の介護なども、自分にかかってくる。そのときに、介護に依存するのではない生き方が、自分にできるだろうか?

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