昨年8月、母方の祖母がこの世から旅立つのを、見送りました。祖母は熱心な天理教の信者でありました。その教えにのっとるならば、「祖母は出直しました」と言うのが、祖母の気持ちに沿う言葉であろうと思います。
母方の祖母の出直しについて
→
http://www.mypress.jp/v2_writers/fuyuu/story/?story_id=1765380さて、私にはもう一人の祖母がおります。父方の祖母です。これは完全なる偶然だと聞いておりますが、父方の祖母も天理教の信者(所属の大教会は別)であります。
父方の祖母にも、出直しのときが迫っていると、宣告されました。先日より、モルヒネを使用することとなりました。今はもう祖母を呼んでも、返事は返ってきません。モニター類の示す波形も、だんだんと周期が長くなっているのだそうです。
数日前、祖母は叔母に「人間はなんで死ぬのかなぁ?」と聞いたそうです。祖母は認知症も進んでおりましたし、先月軽い脳梗塞も起こしておりました。しかし、ほんの数日間だけ、意識が正常になったことがあり、そのときに叔母に「なんで死ぬの?」と言ったのだそうです。
叔母は思わず答えに詰まったと話していました。
そのとき、たまたま居合わせた天理教の先生が、「○○さんも、△△さんも、あの世に行ったらちゃんといてるから、何にも心配せんでえぇよ。さびしくない」と明るく言い聞かせてくれたのだそうです。
幼い子どもが、「人間はなんで死ぬのかなぁ?」と疑問を持つことが、あります。
また、大人になっても「なんで死ぬのかなぁ?」と考えることがあります。
でも、祖母の問いかけは、それと同じ言葉なのに、何倍もの重たさをもって、私たちに迫ってきた感じがします。
二人の祖母は、生き方も、人との接し方も、そのほかいろんなことも、まったく対照的な二人だと、私は感じておりました。それゆえに、多少の衝突もあったようですが。。。
ただ、二人の祖母が最後のメッセージとして残してくれたことが、おぼろげながら分かるように思います。これは私の思い込みなのかもしれませんが。。。
「人は、死ぬと分かっているからこそ、一生懸命生きることができる」
私には「これで最後になるかもしれない」と思ったら、一生懸命取り組むことができますが、「次があるかもしれない」と思ったら、手を抜いてしまうというところがあります。
そんな私でも、もしも「明日で、あなたの寿命はおしまい」といわれたら、一瞬一瞬を一生懸命に生きようとするだろうと思います。
「なんで?」の答えにはなっていないかもしれませんが、それでも二人の祖母のメッセージの一つだと思っています。
天理教では「死」を「出直し」と表現します。ある「命」にとって、死ぬということは、次の新しい「生」へと向かってやり直せるためのチャンスだ、と考えるのです。だからむやみに悲しみ、悲嘆にくれるのではなく、故人が安心して旅立てるように、見送りましょう。そんな風に教えられたことがあります。
とはいっても、残されるほうは悲しいものです。さびしいものです。
もうすぐ、手の届かないところへ行ってしまう。
その言葉がずっと、胸の中に何か、冷たい塊として解けずに存在するように思います。
天理教では、死に装束として「おつとめ着」をつけさせることになります。黒の紋付です。
母方の祖母に着せた紋付は、祖母自身が何年も着続け、おつとめに立ち続けてきたものでした。
父方の祖母にもやはり、祖母自身が何年も、それを着ておつとめに立ち続けたものを、着せることになるでしょう。
これから先、私のできることは、「何があっても、二人の祖母のことを忘れない」ということでしょう。時には腹の立つ思い出も浮かびますが、それすらもとても大切な思い出として、ずっと大切にしていきます。
二人の祖母の、波乱の多かった人生。それを立派に生き抜いた二人の祖母のことを、ずっとずっと心に刻み付けて、生きていこうと、そう思います。
最後まで、いい孫になれなくて、ごめんなさい。
[0回]
PR